王烈(おうれつ) ※あざなは彦方(げんほう)

【姓名】 王烈(おうれつ) 【あざな】 彦方(げんほう)

【原籍】 平原郡(へいげんぐん)

【生没】 141~218年(78歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・管寧伝(かんねいでん)』に付された「王烈伝」あり。

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盗人を変えた一反の布

父母ともに不詳。

王烈は当時、邴原(へいげん)や管寧よりも名声があったという。彼は優れた見識と道徳を備え、義を守って横道に逸れなかった。潁川(えいせん)の陳寔(ちんしょく)を師と仰ぎ、そのふたりの息子を友としていた。

そのころ潁川の荀爽(じゅんそう)・賈彪(かひゅう)・李膺(りよう)・韓融(かんゆう)も陳寔の下で学んでおり、王烈の器量や学問が人並み以上であるのを見て親しく付き合った。このことから王烈の名が四海の内に聞こえ渡るようになったという。

郷里に帰った後、王烈は父の喪に遭い、涙のうちに3年を過ごす。

このころ飢饉(ききん)が起こり、道に餓死者が転がるというありさまだった。

そこで王烈は自分の蓄えを分けて人々の命を救う。一族は彼の孝をたたえ、村人たちは心を寄せた。

また、王烈は古典を楽しみとし、人に教えることを自らの義務とする。こうして学校を建てて教育を尊重した。

人を導くにあたっては、その者の性質に頼らずに道義をもって教え諭し、善に従い悪から遠ざかるようにさせた。

村にはそうした気風が浸透し、みな争うように善事を行ったという。当時の国主は自ら王烈の屋敷まで出向き、政令についての意見を聴いたほどだった。

後に王烈は孝廉(こうれん)に推挙され、三公の役所から召されたものの応じず。

ちょうど董卓(とうたく)が乱を起こしたため王烈は遼東(りょうとう)へ避難し、自ら農具を手にする。

食べ物や衣服は粗末だったが、彼は自己の楽しみとするところを変えない。やがて東方地域の人々から主君のごとく奉戴された。

その後、公孫度(こうそんたく)の長史(ちょうし)への任命を断ると、商人となって身を汚すことで官途を逃れる。

たびたび曹操(そうそう)も召し寄せようとしたが、遼東では王烈の代わりに言い訳をして行かせなかった。

218年、王烈は病気のため遼東で亡くなる。このとき78歳だった。

管理人「かぶらがわ」より

本伝には、王烈が当時、邴原や管寧より名声があったこと。公孫度の長史への任命を断り、商人となって身を汚すことで官途を逃れたこと。曹操から丞相掾(じょうしょうえん)に任ぜられたものの、この命が届かないうちに遼東で亡くなったことが簡潔に書かれている程度でした。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

これに裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『先賢行状(せんけんぎょうじょう)』の記事を加味すると、おおよそ上で挙げたような経歴になります。

王烈の教化が行き渡った例として、『先賢行状』にひとりの男の話がありました。

ある男が牛を盗み、持ち主に捕らえられます。男は今後、過ちを改めると誓い、盗みの件を王烈に知らせないよう頼みました。

それでもこの件は王烈の耳に入りました。ところが、なぜか王烈は盗みを働いた男に一反の布を贈ったのです。

男が過ちを反省し、このことを聞き知られるのを心配している態度を、悪事を恥じることをわきまえていると評価。悪事を恥じる気持ちが起これば、善良な心が生まれるはず。だから布を与えて善事を奨励したのだと。

それから1年ほど後のこと、老人が重い荷を担ぎながら歩いていると、ある男が代わりに数十里も荷を担いでくれ、家に着くと名乗らずに去ってしまいます。

また少し後、この老人が出かけた先で剣をなくしました。

一方、道を歩いていて剣を見つけた者がおり、そのままにしておくと盗まれ、持ち主の手に戻らないことを心配します。ひとまず自分が剣を預かり、懸賞を付けて持ち主を探すことも考えましたが、人違いをする恐れがありました。

そこで、剣を移さずに見張ることにしました。

夕暮れになって老人が剣をなくした場所まで戻り、見張っていてくれた人に出会います。何と、それは以前に荷を担いでくれた男でした。

老人が今度は姓名を教えてもらい、このことを王烈に報告します。

話を聞いた王烈は、そのような仁者にお目にかかったことがないと言い、人を遣って捜させました。

すると、男は以前に牛を盗んだ者だったことがわかったのです。

王烈は感嘆し、男が住む村を顕彰したうえ、その行いを評価したのだとか。こういう教化の方法もあるのですね。

なお『三国志』(魏書・邴原伝)の裴松之注に引く『献帝起居注(けんていききょちゅう)』には、建安(けんあん)15(210)年に初めて徴事(ちょうじ。丞相徴事〈じょうしょうちょうじ〉)の官が置かれ、邴原と王烈が任命されたという記事がありました。

ここはイマイチわからなかったのですけど、王烈は任命されたものの、就任しなかったということでしょうか?

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