管寧(かんねい)

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【姓名】 管寧(かんねい) 【あざな】 幼安(ようあん)

【原籍】 北海郡(ほっかいぐん)朱虚県(しゅきょけん)

【生没】 158~241年(84歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第066回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・管寧伝』あり。

40年近くも遼東(りょうとう)で隠棲(いんせい)。曹氏(そうし)の招きには最後まで応じず

父母ともに不詳。管邈(かんばく)という息子がいた。

管寧の一族は春秋(しゅんじゅう)時代の斉(せい)の管仲(かんちゅう)の子孫である。

田氏(でんし)が権力を握ると管氏一族は斉を去り、ある者は魯(ろ)へ行き、ある者は楚(そ)へ行った。漢(かん)の初めに管少卿(かんしょうけい)が出て「燕県令(えんけんのれい)」を務め、朱虚に居を構える。それから9代を経て管寧が生まれたという。

173年、管寧は16歳で父を亡くした。親戚たちは彼が孤児となり貧しいことに同情し、みなで香典を贈る。しかし管寧は受け取ろうとせず、財産相応の野辺送りを済ませた。

彼は身長が8尺(せき)あり、ひげと眉が美しかった。平原(へいげん)の華歆(かきん)や同郡の邴原(へいげん)とは友人で、ともに留学して陳寔(ちんしょく)を敬愛する。

187年、天下が大混乱に陥ると、公孫度(こうそんたく)の威令が国外まで行き渡っていると聞き、管寧は邴原や平原の王烈(おうれつ)らと遼東へ赴く。

公孫度は屋敷を用意して待っていたものの、彼らは公孫度に会った後、山谷に廬(ろ)を結んだ。遼東に難を避けた者は郡の南部に住むことが多かったが、管寧は北部に住み、気持ちが揺らいでいないことを示す。それでも徐々に住まいを南へ移し、結局みなと一緒になった。

196年、曹操(そうそう)は「司空(しくう)」になると管寧を召したが、公孫度の息子である公孫康(こうそんこう)はこの命令を伝えなかった。

やがて天下が少し安定してきたので、郷里を離れていた人々はみな帰還する。ただ管寧だけは落ち着き払い、遼東で一生を送るかのような様子を見せていた。

223年、曹丕(そうひ)が高官に詔(みことのり)を下し、特に行いの優れた人物を推挙せよと命ずる。その際、司徒(しと)の華歆が管寧を推薦したため、曹丕は彼を招くことにした。

こうして管寧は家族を連れ、海路で北海郡に帰ることになる。公孫康の弟の公孫恭(こうそんきょう)は郡都の南郊まで見送ったうえ、衣服や器物を贈った。

管寧は遼東に来てから、公孫度・公孫康・公孫恭より贈られた品々をすべて保管していた。無事に海を渡って西へ着いた後、それらの贈り物を密封して送り返す。曹丕の詔によって「太中大夫(たいちゅうたいふ)」に任ぜられたが、固持して受けなかった。

226年、曹叡(そうえい)が帝位を継ぐと、太尉(たいい)の華歆は官位を管寧に譲ろうとする。そこで曹叡は詔を下し、管寧を「光禄勲(こうろくくん)」に任じた。

曹丕の黄初(こうしょ)年間(220~226年)から曹叡の青龍(せいりょう)年間(233~237年)にかけ、たびたび管寧は手厚く招かれたものの、老いと病気を理由に辞退し続けた。

241年、太僕(たいぼく)の陶丘一(とうきゅういつ)、永寧衛尉(えいねいえいい)の孟観(もうかん)、侍中(じちゅう)の孫邕(そんよう)、中書侍郎(ちゅうしょじろう)の王基(おうき)が改めて管寧を推薦する。

曹芳(そうほう)は特別に車輪を蒲(ガマ。水際に生える葉の長い草)で巻いた揺れの少ない車を用意したうえ、10反(たん)の帛(きぬ)に璧玉を載せて贈り物とし、彼を招聘(しょうへい)した。ところが、ちょうどそのとき管寧は84歳で亡くなった。

管理人「かぶらがわ」より

遼東での暮らしは37年に及んだといいますから、管寧の環境適応能力の高さが感じられます。前に出てきた邴原もそうでしたが、早くに父を亡くして苦労した人には、こういうたくましさを持った人が多いですね。

公孫氏に仕えず帰郷した判断はわかりますが、曹氏の招きにも応じなかった管寧。華歆とは違い、本当に富や権力に興味がなかったらしい。

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