【姓名】 張氏(ちょうし) ※名とあざなは不詳
【原籍】 彭城国(ほうじょうこく)
【生没】 ?~253年(?歳)
【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。
孫和(そんか)の正室
父は張承(ちょうしょう)、母は諸葛氏(しょかつし)。張震(ちょうしん)は兄弟。
夫の孫和は250年に皇太子を廃されたが、252年1月には南陽王(なんようおう)に封ぜられ、長沙(ちょうさ)に住むことになった。このとき張氏も付き従った。
同年4月に孫亮(そんりょう)が即位すると、補佐役として孫峻(そんしゅん)が政治を牛耳るようになった。
孫峻は普段から全公主(ぜんこうしゅ。孫魯班〈そんろはん〉)の機嫌を取ることに努めていたが、全公主は孫和の母である王氏(おうし。大懿皇后〈たいいこうごう〉。琅邪〈ろうや〉の人)と仲が良くなかった。
翌253年、全公主は孫峻を唆して、孫和を新都郡(しんとぐん)へ強制移住させたうえ、さらに使者を遣って孫和に自殺を命じた。このとき張氏も一緒に自殺した。
管理人「かぶらがわ」より
父の張承は張昭(ちょうしょう)の息子で、母の諸葛氏は諸葛瑾(しょかつきん)の娘。張氏には偉大なふたりの祖父がいたわけです。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫和伝)には、自殺を命ぜられた孫和から別れを告げられた張氏が、ともに死ぬ覚悟を伝えた記事がありました。
その一方で『三国志』(呉書・孫和何姫伝〈そんかかきでん〉)によると、孫和の側室だった何氏(かし)は「皆が殉死してしまっては遺児を育てる者がいなくなります」と訴えて生き残り、孫晧と3人の弟を養育することが許されました。
その後、何氏の育てた孫晧(そんこう)が帝位に即きますが、結局は彼が呉(ご)を滅亡へと導くことになってしまいました。
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