孫朗(そんろう。孫仁〈そんじん〉)

【姓名】 孫朗(そんろう) 【あざな】 ?

【原籍】 呉郡(ごぐん)富春県(ふしゅんけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第033話で初登場。
【演義】 第007回で初登場。
【正史】 登場人物。

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呉(ご)の孫権(そんけん)の弟

父は孫堅(そんけん)だが、母は不詳。一名を仁(じん。孫仁)ともいう。

孫策(そんさく)・孫権・孫翊(そんよく)・孫匡(そんきょう)は、みな異母兄。異母姉の孫氏は蜀(しょく)の劉備(りゅうび)に嫁いだものの、のちに呉へ戻った。

『三国志演義』では、あざなを早安(そうあん)としている。吉川『三国志』(第33話)や『三国志演義』(第7回)では、生母を孫堅の側室だった呉氏(ごし。武烈皇后〈ぶれつこうごう〉の妹)とする。

さらに、劉備に嫁いだ孫氏を孫仁という名の娘として登場させており、孫朗とは同母姉弟という設定にしている。しかし正史『三国志』には、孫朗と孫氏が同母姉弟だったという記事は見られない。
吉川『三国志』の考察 第033話 「溯江(そこう)」
袁紹(えんしょう)と袁術(えんじゅつ)が仲たがいすると、長沙(ちょうさ)にいた孫堅(そんけん)は袁術から密書を受け取る。これを好機と捉えた孫堅は自ら船団をひきい、荊州(けいしゅう)の劉表(りゅうひょう)を攻めるべく出撃した。第0...

222年、魏(ぎ)の曹休(そうきゅう)が洞口(どうこう)へ進軍した際、呂範(りょはん)が軍勢を指揮し防戦にあたった。

このとき孫朗は定武中郎将(ていぶちゅうろうしょう)だったが、呂範の命令に背いて火を放ち茅芒(チガヤ)を焼いてしまい、軍用資材の不足を招いた。呂範は事情を説明した書面とともに孫朗を呉郡へ送還した。

怒った孫権は孫朗の一族を孫氏から外し、丁氏(ていし)という姓を与え、孫朗を終身禁錮(きんこ)とした。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞喜(ぐき)の『志林(しりん)』によると、「孫堅には5人の息子があった。孫策・孫権・孫翊・孫匡は正室の呉氏(武烈皇后)が生んだ子で、末子の孫朗は庶子であり、一名を孫仁と言った」ということです。

また、上で挙げた記事のうち222年の一件については、『三国志』(呉書・孫匡伝)の裴松之注に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』によるものです。ただ、そこでは孫朗のことではなく、孫匡のこととして書かれています。

ですが、これについては裴松之が(孫朗のことを孫匡と取り違えたのだという)誤りを指摘しています。

「『三国志』(呉書・孫匡伝)には、『孫匡は任官される前に死去した。このとき20余歳だった』とあるのに、『江表伝』では『呂範が洞口にあったとき孫匡は定武中郎将だった』と言っている。定武中郎将だったのなら任官されていなかったわけではない」

「さらに、孫匡の父である孫堅は初平(しょへい)2(191)年に死去した(なお『三国志』〈呉書・孫堅伝〉では、その死を初平3〈192〉年と記している)」

「洞口の戦役は(魏の)黄初(こうしょ)3(222)年のことであり、孫堅の死から32年(31年のような気がするが……)もの年月が経っている。もし孫匡が存命だったとすれば、本伝は『孫匡が死去したとき20余歳だった』とは言えないはずである」

「これは思うに、孫権には別に異母弟の孫朗(孫仁)がいるため、『江表伝』は孫朗のことを孫匡のことと取り違えたのだろう。孫朗の名と官位は『三朝録(さんちょうろく)』や虞喜の『志林』に見えている」というもの。

裴松之の指摘が妥当だと思われますので、ここでは孫匡を孫朗と解釈し、孫朗の事績として採り上げておきます。

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人物データ 呉の孫氏
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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