徐宣(じょせん) ※あざなは宝堅(ほうけん)

【姓名】 徐宣(じょせん) 【あざな】 宝堅(ほうけん)

【原籍】 広陵郡(こうりょうぐん)海西県(かいせいけん)

【生没】 ?~236年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・徐宣伝』あり。

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曹氏(そうし)3代(曹操〈そうそう〉・曹丕〈そうひ〉・曹叡〈そうえい〉)に仕えて厚い信頼を得る、諡号(しごう)は貞侯(ていこう)

父母ともに不詳。息子の徐欽(じょきん)は跡継ぎ。

徐宣は動乱を避けて江東(こうとう)へ赴いたものの、孫策(そんさく)の任命を辞退し本郡に帰る。

そして広陵太守(こうりょうたいしゅ)の陳登(ちんとう)から綱紀(こうき)に任ぜられた。

徐宣は同郡の陳矯(ちんきょう)と名声を等しくしたが、個人的な仲はうまくいかなかった。それでもふたりとも陳登に重んぜられ、皆で曹操に心を寄せる。

海西や淮浦(わいほ)の民が反乱を起こした際、都尉(とい)の衛弥(えいび)と海西県令(かいせいけんれい)の梁習(りょうしゅう)が駆けつけ、夜のうちに密かに徐宣を送り出したため乱を免れた。

曹操は督軍(とくぐん)の扈質(こしつ)に賊の討伐を命じたが、兵が少なく途中で進めなくなる。

徐宣は密かに扈質に会って情勢を説明し、進撃と賊の撃破を助けた。

後に徐宣は曹操に召されて司空掾属(しくうえんぞく)となり、東緡県令(とうびんけんれい)や発干県令(はっかんけんれい)を経て斉郡太守(せいぐんたいしゅ)に昇進した。

曹操が司空を務めていた期間は196~208年。

208年、徐宣は中央へ入って門下督(もんかとく。丞相門下督)となり、翌209年には曹操に付き従って寿春(じゅしゅん)へ赴く。

曹操が丞相を務めていた期間は208~220年。

211年、馬超(ばちょう)らが反乱を起こすと、曹操は大軍をひきいて西征に向かう。

このとき徐宣が左護軍(さごぐん)に任ぜられ、いまだ安定しない揚州(ようしゅう)で諸軍を統率することになった。

曹操が帰還した後、徐宣は丞相東曹掾(じょしょうとうそうえん)となり、地方へ出て魏郡太守(ぎぐんたいしゅ)に転ずる。

220年1月、曹操が洛陽(らくよう)で崩ずると、群臣は殿中に入って喪を発した。

このときある者が、諸城の郡守(太守)を(曹氏と同郷の)譙(しょう)や沛(はい)の出身者と交代させるべきだと述べる。

すると徐宣は厳しい声で言った。

「現在は遠きも近きも統一され、みな忠節を尽くしたいとの気持ちを抱いている。なぜ譙や沛の者に限ることがあろうか? そのようなことをすれば、各地で守備にあたってきた者の心をくじいてしまうぞ!」

これを聞いた曹丕は、徐宣を高く評価して言った。

「彼はいわゆる社稷(しゃしょく)の臣(国家の重臣)である」

同年10月、曹丕が帝位に即いた後、徐宣は御史中丞(ぎょしちゅうじょう)に昇進し、関内侯(かんだいこう)に封ぜられる。

後に城門校尉(じょうもんこうい)に移ったものの、わずかひと月で司隷校尉(しれいこうい)に昇進し、散騎常侍(さんきじょうじ)に転じた。

222年、徐宣が曹丕に付き従って広陵まで行くと、全軍で船に乗り込んだときに風浪が強まる。そのため曹丕の船は横倒しになった。

徐宣は後方で案じていたが、波を搔(か)き分け前へ出て、いち早く曹丕のところまでたどり着く。曹丕は勇気ある行為だと考え、徐宣を尚書(しょうしょ)に昇進させた。

226年、曹叡が帝位を継ぐと、徐宣は津陽亭侯(しんようていこう)に爵位が進む。封邑(ほうゆう)は200戸だった。

後に中領軍(ちゅうりょうぐん)の桓範(かんはん)の推薦もあり、左僕射(さぼくや。尚書左僕射)に昇進。やがて侍中(じちゅう)・光禄大夫(こうろくたいふ)の官位を加えられる。

曹叡が許昌(きょしょう)に行幸した際、徐宣は留守中の諸事を統括する。そして曹叡が還幸した後、尚書の担当官吏が文書を奉呈した。

だが曹叡は詔(みことのり)を下し、その中で「朕が見ても僕射(徐宣)が見ても、どう違うのだ」と述べ、それらの文書を見ようともしなかったという。

尚方令(しょうほうれい。官名)が勝手に人と会った件で取り調べを受けたとき、徐宣は上奏文を奉り、刑罰が厳しすぎると述べた。

また、宮殿の造営で民力を使い果たすことを諫め、曹叡はこれらの意見に自筆の詔を下して応えた。

徐宣は68歳の時、病気を理由に強く退官を願い出る。しかし、曹叡はどうしても許可しなかった。

236年、徐宣は死去したが、その死に臨み、(自分の遺体には)布衣を着せて疏巾(そきん。粗末な頭巾)をかぶせ、時節の衣服で身を包むようにと遺言する。

詔により車騎将軍(しゃきしょうぐん)の官位が追贈され、貞侯と諡(おくりな)される。葬儀は三公の礼をもって執り行われ、息子の徐欽が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

前に採り上げた同郡の陳矯と似た経歴をたどった徐宣は、亡くなった時期も1年違い。

徐宣は生前に三公へ昇りませんでしたが、陳矯は亡くなる直前に司徒(しと)に昇っています。

コンビかと思わせるふたりなのに、ずっと仲は悪かったとのこと。陳矯が同族の娘を娶(めと)ったことが、最後まで引っかかっていたのでしょうか?

いずれかの時点で和解的な話があるとよかったのですけど――。互いをライバル視するところもあったと思われるので、まぁ仕方ないか。

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