何氏(かし)B ※孫和(そんか)の妻、何姫(かき)

【姓名】 何氏(かし) ※名とあざなは不詳

【原籍】 丹楊郡(たんようぐん)句容県(こうようけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第120回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・孫和何姫伝(そんかかきでん)』あり。

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孫和の側室、何姫

父は何遂(かすい)だが、母は不詳。何洪(かこう)・何蔣(かしょう)・何植(かしょく)は弟。孫和との間に孫晧(そんこう)を儲けた。

孫権(そんけん)が軍営を視察した際、何氏は一行の様子を見物していた。孫権は遠くから彼女を見て、並の女性でないと感じたという。そこで宦官(かんがん)に命じて後宮へ入れ、息子の孫和に下賜した。

242年に何氏が息子を生むと、喜んだ孫権は彭祖(ほうそ)という名を付けてやった。これが後の孫晧である。

250年に皇太子を廃された孫和だったが、252年1月には南陽王(なんようおう)に封ぜられ、長沙(ちょうさ)に住むことになった。このとき何氏も付き従った。

同年4月に孫亮(そんりょう)が即位すると、補佐役として孫峻(そんしゅん)が政治を牛耳るようになった。

孫峻は普段から全公主(ぜんこうしゅ。孫魯班〈そんろはん〉)の機嫌を取ることに努めていたが、全公主は孫和の母である王氏(おうし。大懿皇后〈たいいこうごう〉。琅邪〈ろうや〉の人)と仲が良くなかった。

全公主は孫峻を唆して孫和を新都郡(しんとぐん)へ強制移住させたうえ、さらに使者を遣って孫和に自殺を命じた。このとき孫和の正室だった張氏(ちょうし)も一緒に自殺した。

しかし何氏は「皆が殉死してしまっては遺児を育てる者がいなくなります」と訴えて生き残り、孫晧と3人の弟を養育した。

264年7月に孫晧が即位すると、父の孫和に昭献皇帝(しょうけんこうてい)の諡号(しごう)を追贈した。

母の何氏にも昭献皇后(しょうけんこうごう)の尊号を贈り、何氏は升平宮(しょうへいきゅう)と呼ばれた。

同年9月、何氏は位を進められて皇太后となる。また、弟の何洪は永平侯(えいへいこう)に、何蔣は溧陽侯(りつようこう)に、何植は宣城侯(せんじょうこう)に、それぞれ封ぜられた。

これ以降の何氏については記事がなく、没年などもわからない。

管理人「かぶらがわ」より

孫和が自殺を命ぜられ、正室の張氏も殉死したとき、何氏は人生最大の危機を迎えたことが想像できます。

そのような状況で、孫和の遺児を育てる者がいなくなると訴えて生き残るあたりは、なかなかのしたたかさだと思います。

ただ、こうして何氏が育てた孫晧が即位後に暴政を行い、呉(ご)を滅亡へと導くことになりました。皮肉な結末ですね。

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