応璩(おうきょ) ※あざなは休璉(きゅうれん)

【姓名】 応璩(おうきょ) 【あざな】 休璉(きゅうれん)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)

【生没】 190~252年(63歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王粲伝(おうさんでん)』に付された「応璩伝」あり。

スポンサーリンク
スポンサーリンク

朱建平(しゅけんぺい)の予言はよく当たる?

父は応珣(おうしゅん)だが、母は不詳。応奉(おうほう)は祖父。応劭(おうしょう)は伯父。応瑒(おうちょう)は兄。

息子の応貞(おうてい)は跡継ぎで、応純(おうじゅん)と応秀(おうしゅう)も同じく息子。

応璩は広い学識を備え、文章を作るのがうまく、書と記を得意とした。

曹丕(そうひ。220~226年)と曹叡(そうえい。226~239年)の時代に散騎常侍(さんきじょうじ)を務め、239年に曹芳(そうほう)が帝位を継ぐと、昇進を重ねて侍中(じちゅう)・大将軍長史(だいしょうぐんちょうし)となった。

曹爽(そうそう)が大将軍として実権を握り、法や制度に違反することが多くなると、応璩は詩を作って風刺したという。

250年、応璩は再び侍中となり、著作を担当する。

252年、応璩が死去すると衛尉(えいい)の官位を追贈され、息子の応貞が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくく、上で挙げた記事は、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く荀勗(じゅんきょく)の『文章叙録(ぶんしょうじょろく)』によるものです。

『三国志』(魏書・朱建平伝)には以下のような話もありました。

まだ曹丕が五官将(ごかんしょう。五官中郎将〈ごかんちゅうろうしょう〉)だったころ(211~217年)、彼の御前に30人ほどが集まる機会があり、朱建平に自分の寿命や同席者の人相を占わせてみました。

朱建平は応璩にこう言います。

「あなたは62歳で常伯(じょうはく。侍中)の位に就かれますが、そのときにきっと災難がありましょう。それより1年前、あなただけに白い犬が見え、ほかの方には見えないということがあるでしょう」

後に応璩は(250年に)61歳で(再び)侍中となり、宮中で宿直をしていたところ、ふと白い犬を見かけます。そこで皆に尋ねてみたのですが、誰も見たという者はいません。

このことがあってから、しばしば応璩は客を集め、地方を旅して山河を見て回り、酒を飲んで楽しみにふけります。

結局、朱建平に言われた期限を1年超え、(252年に)応璩は63歳で亡くなったのだと。

この話は応璩にとってよかったのか、悪かったのか、イマイチわかりませんでした。

死期を悟り、思い残しのない晩年が過ごせたと見るべきなのか? はたまた予言に振り回され、年老いた身で遊興にふけり、死期を早めてしまったと見るべきなのか?

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました