応貞(おうてい)

【姓名】 応貞(おうてい) 【あざな】 吉甫(きっぽ)

【原籍】 汝南郡(じょなんぐん)

【生没】 ?~269年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・王粲伝(おうさんでん)』に付された「応貞伝」あり。

文才や儒学の教養により晋代(しんだい)でも活躍

父は応璩(おうきょ)だが、母は不詳。応瑒(おうちょう)は伯父。応純(おうじゅん)と応秀(おうしゅう)は弟。

252年、応貞は応璩が死去したためその跡を継ぎ、父と同様、文才により名を上げる。また、若いころから彼の才能は評判で、談論にも巧みだったという。

曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)、夏侯玄(かこうげん)が大変な名誉と権勢を持っていた。あるとき応貞が、夏侯玄の座中で五言詩を作り高い評価を受ける。これがきっかけとなって推挙され、のち高官を歴任することになった。

264年、応貞は「参相国軍事(さんしょうこくぐんじ)」に就任。

この時の「相国」は司馬昭(しばしょう)。

同年9月、司馬炎(しばえん)が「撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)」になると、応貞はその「参軍事」に転じた。

翌265年、司馬炎が晋の帝位に即くと、応貞は「太子中庶子(たいしちゅうしょし)・散騎常侍(さんきじょうじ)」に昇進。

さらに儒学の素養を買われ、太尉(たいい)の荀ギ(じゅんぎ。豈+頁)とともに新たな儀礼を制定したが、これは施行に至らなかった。

その後、応貞は269年に死去した。

管理人「かぶらがわ」より

登場箇所が少ないためコメントしにくいです。

上で挙げた記事は、本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く荀勗(じゅんきょく)の『文章叙録(ぶんしょうじょろく)』によるもの。多才ぶりはうかがえますけど、イマイチ突っ込みどころがない感じでした。

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