梁習(りょうしゅう)

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【姓名】 梁習(りょうしゅう) 【あざな】 子虞(しぐ)

【原籍】 陳郡(ちんぐん)柘県(しゃけん)

【生没】 ?~230年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・梁習伝』あり。

幷州(へいしゅう)在任20余年。天下第一の治績とたたえられる

父母ともに不詳。息子の梁施(りょうし)は跡継ぎ。

梁習は陳郡の「綱紀(こうき)」を務めていたが、196年に曹操(そうそう)が「司空(しくう)」となると、召されて「漳県長(しょうけんのちょう)」に任ぜられた。

さらに「乗氏県令(じょうしけんのれい)」「海西県令(かいせいけんのれい)」「下邳県令(かひけんのれい)」を歴任し、それぞれの任地で治績を上げた。のち中央へ戻って「西曹令史(せいそうれいし)」となり、「西曹属(せいそうぞく)」に昇進。

206年、曹操が幷州を平定した後、梁習は「別部司馬(べつぶしば)」のまま「幷州刺史(へいしゅうのしし)」を代行する。

このころ幷州の境には蛮人(南匈奴〈なんきょうど〉)が勢力を張っており、罪を犯した官民は彼らの部落へ入り込んでいた。また、州の内外の有力者たちは軍勢を擁して被害を与え、互いに扇動し合い、しばしば仲間割れを起こして張り合った。

梁習は着任すると、こうした有力者たちを礼厚く召し寄せ、次々に推挙し出仕させていく。その後、順序に従い(有力者たちの配下にあった)成年男子を徴発し義勇兵とした。

翌207年、曹操が大軍をひきいて北方征討に赴いた際、梁習は、彼ら義勇兵を正規軍に分属してほしいと願い出る。

大軍が引き揚げた後、義勇兵の家族を移住させることにし、何度かに分けて鄴(ぎょう)へ送り出したが、これは合わせて数万人にもなった。一方で命令に従わない者は討伐し、斬った首は4ケタの数に、降伏した者は5ケタの数に、それぞれ上った。

南匈奴の単于(ぜんう。王)や名王(めいおう。諸部族の有力者)は恭順の意を示し、配下の部族民らも内地の民と同様、官の仕事に奉仕するようになった。

国境地帯はすっかり鎮まり、民は野に満ちて農業や蚕業(さんぎょう)に励み、命令や禁令も行き渡る。梁習が推挙した者たちもみな世間で名を上げた。

曹操は彼の行政を嘉(よみ)して「関内侯(かんだいこう)」に封じたうえ、改めて本官(正式な「幷州刺史」)とした。

213年、幷州が冀州(きしゅう)に併せられると、梁習は「議郎(ぎろう)・西部都督従事(せいぶととくじゅうじ)」に任ぜられ、冀州に住むもと部族民を統括する。

彼は使者として上党(じょうとう)に赴き、大きな材木を取り寄せ、鄴の宮殿造営に提供したり、ふたりの「屯田都尉(とんでんとい)」を置き人夫600名を宰領させ、街道沿いに菽(マメ)や粟(アワ)を植え、人と牛の用に供するよう上奏したりもした。

220年、曹丕(そうひ)が帝位に即き再び幷州が置かれると、また梁習は「幷州刺史」となり「申門亭侯(しんもんていこう)」に爵位が進む。封邑(ほうゆう)は100戸だった。彼の幷州における治績は常に「天下第一」と評価されたという。

228年、曹叡(そうえい)から中央へ召し還され「大司農(だいしのう)」となる。梁習は20余年にわたり幷州に在任したが、その暮らしぶりは至って質素で、高価な特産物を私有することもない。そこで曹叡は格別な配慮をもって、手厚い待遇と下賜品を授けた。

230年、梁習が死去すると息子の梁施が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

とかく問題が起こりがちで治めにくい辺境地帯。ここをよく鎮めた梁習も、質朴で実務に優れていたひとり。こういう人材が、特に蜀(しょく)では足りていなかった気がします。そのせいで諸葛亮(しょかつりょう)自身が、あくせく働き続けることになったのでしょうね。

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