【姓名】 陸績(りくせき) 【あざな】 公紀(こうき)
【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)
【生没】 188~219年(32歳)
【吉川】 第135話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・陸績伝』あり。
畑違いの任務に充てられて、学識を活かしきれず
父は陸康(りくこう)だが、母は不詳。陸儁(りくしゅん)は兄。陸遜(りくそん)や陸瑁(りくぼう)は同族。陸宏(りくこう)と陸叡(りくえい)という息子がおり、ほかに陸鬱生(りくうつせい)という娘もいた。
★陸儁の名は『三国志』には出てこない。
193年、このとき6歳の陸績は、九江(きゅうこう)で袁術(えんじゅつ)に目通りする機会があった。
その席で橘(ミカン)が出されたので、陸績は懐に3個入れたが、退出の挨拶をした際に床にこぼれ落ちてしまう。
すると袁術が言った。
「陸郎(りくろう。陸の若君)は招かれた席で、懐に橘を隠したりするのか?」
陸績はひざまずいて応えた。
「母のために持って帰ろうと思ったのです」
これを聞いた袁術は大いに感じ入ったという。
孫策(そんさく)が呉県にいたころ、張昭(ちょうしょう)・張紘(ちょうこう)・秦松(しんしょう)を上賓として厚遇した。
★張昭らが孫策に迎えられたのは196年ごろのこと。
あるとき孫策が彼らと語り合い、いまだ天下は安定していないから、武力を用いて平定を目指すべきだと述べた。
まだ年少の陸績は末席にいたが、斉(せい)の桓公(かんこう)を補佐した管夷吾(かんいご。管子〈かんし〉)のやり方や孔子(こうし)の言葉を挙げ、道徳を軽んじ、武力ばかりを重んずることに反対を唱える。
張昭らは陸績の非凡さに心を動かされたという。
200年、孫策が急死して弟の孫権(そんけん)が跡を継ぐと、陸績は召されて奏曹掾(そうそうえん)となる。
だが直言を繰り返したため、地方へ出されて鬱林太守(うつりんたいしゅ)・偏将軍(へんしょうぐん)に転じ、2千の兵士を授けられた。
陸績は足の具合が悪かったうえ、学者としての仕事をしたいとも思っていたことから、地方で太守を務めるのは己の志に沿わないものだった。
そこで日々の仕事をこなしながらも著述はやめず、『渾天図(こんてんず)』を著したり、『易経(えききょう)』に注を付けたり、『太玄経(たいげんきょう)』に解釈を施したりし、これらはみな広く世に伝えられたという。
219年、陸績は32歳で死去した。
管理人「かぶらがわ」より
本伝によると、陸績は風貌が勇壮なうえに博学多識で、天文暦法や数学など、様々な分野の書物を通読していたそうです。
以前から有名だった虞翻(ぐはん。164~233年)や荊州(けいしゅう)の名士たる龐統(ほうとう。179~214年)も、年下の陸績と親しく付き合ったのだとか。
慣れない鬱林での暮らしが陸績の命を削ったのなら、孫権はもったいないことをしましたね。
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