張温(ちょうおん)A ※あざなは「恵恕(けいじょ)」

【姓名】 張温(ちょうおん) 【あざな】 恵恕(けいじょ)

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 193~230年(38歳)

【吉川】 第260話で初登場。
【演義】 第038回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・張温伝』あり。

内外の名声を集めすぎたため失脚した才人

父は張允(ちょういん)だが、母は不詳。張祗(ちょうし)と張白(ちょうはく)は弟で、ほかに3人の姉妹がいた。

張温は若いころから節操があり、容貌が特に立派だった。孫権(そんけん)の下で「議郎(ぎろう)」や「選曹尚書(せんそうしょうしょ)」を務めた後、「太子太傅(たいしたいふ)」に転じ厚い信頼を得る。

224年、張温は「輔義中郎将(ほぎちゅうろうしょう)」として蜀(しょく)へ遣わされ、蜀の人々からも高い評価を受けた。帰国後しばらくして豫章(よしょう)へ赴き、部隊を編成して出兵に備える任務にあたったものの、なかなか仕事がはかどらない。

孫権は、蜀の政治を賛美した張温の態度を不快に感じていたうえ、その名声がみなの心を引き付けていたので、やがて自分の思い通りに働かなくなることを恐れ、彼を貶(おとし)める機会をうかがっていた。

曁豔(きえん)は張温と同じ呉郡の出身で、彼の引き立てにより「尚書」まで昇った。その曁豔が厳格な人事評価を断行したところ多数の降格者が出て、もとの役職にとどまれる者は1割もいなかった。さらに曁豔は汚職の度合いがひどい者をみな軍吏とし、特別な営府を設けて呼び集めたりもした。

このようなやり方に対し恨みや憤りの声が強まり、曁豔と選曹郎(せんそうろう)の徐彪(じょひゅう)は専断を行い、賞罰が不公平だと讒言(ざんげん)され、ふたりとも自殺に追い込まれてしまう。

張温は以前から曁豔や徐彪と親しく、手紙のやり取りや行き来があったので、彼もまた罪に問われ、郷里へ帰されて小役人に貶(おと)された。

将軍(しょうぐん)の駱統(らくとう)が上表文を奉り、張温のために執り成しを試みたものの、孫権は聞き入れようとしなかった。

230年、張温は中央への復帰がかなわぬまま38歳で病死した。

管理人「かぶらがわ」より

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞預(ぐよ)の『会稽典録(かいけいてんろく)』によると、虞俊(ぐしゅん)は張温の豊かな才能を認めつつも、知恵に欠けるところがあり、華やかさに実質が伴っていないと見ていたそうで、そのうち人々の恨みを集め、家門を滅ぼすような災いに遭うだろうと心配していました。

蜀の諸葛亮(しょかつりょう)は虞俊の話を耳にしますが、張温がそのような目に遭うとは信じられません。しかしその後、張温の失脚を知ると、初めて虞俊の先見の明を賛嘆したのでした。

それでも諸葛亮は張温が失脚した理由がわからず、何日か考えた末にこう言います。

「ようやくわかった。彼は清濁に対して明確に態度を取り分けすぎたうえ、善悪の区別も明確につけすぎたのだ……」

孫権が取った張温への処遇はどうも割りきれません。彼のような人材を使いこなしてこそ君主の器と言えるのでは?

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