毛玠(もうかい) ※あざなは孝先(こうせん)

【姓名】 毛玠(もうかい) 【あざな】 孝先(こうせん)

【原籍】 陳留郡(ちんりゅうぐん)平丘県(へいきゅうけん)

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 第097話で初登場。
【演義】 第013回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・毛玠伝』あり。

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公正な人材登用に定評あり

父母ともに不詳。兄がいたことがうかがえるものの名は不詳。毛機(もうき)という息子がいた。

毛玠は若いころ県の役人となり、清廉公正との評判を得る。

後に戦乱を避けて荊州(けいしゅう)へ行こうとするも、到着前に劉表(りゅうひょう)の政令がいい加減と聞き、結局は魯陽(ろよう)に住んだ。

192年、曹操(そうそう)が兗州(えんしゅう)に進軍した際、その招きを受けて治中従事(ちちゅうじゅうじ)となる。

毛玠は、天子(てんし。献帝〈けんてい〉)を奉戴(ほうたい)することで不実の臣下(袁紹〈えんしょう〉や劉表)に号令し、農耕を重視して軍需物資を蓄えるよう進言。

曹操は敬意をもって進言を受け入れ、毛玠を功曹(こうそう)に転任させた。

曹操が196年から司空(しくう)、さらに208年から丞相(じょうしょう)を務めた際、毛玠は東曹掾(とうそうえん)として、崔琰(さいえん)とともに官吏の選抜を担当する。

彼らの推挙によって登用された者は、みな清潔公正な人物だった。いくら評判が高くても、行動が本心に根差していない者はまったく昇進できなかった。

毛玠はつつましさで模範になるよう努め、天下の士人も清廉に生きることに励まぬ者はなかった。高官や寵臣でも、規定を超えた車馬や衣服を用いようとする者はいなくなったという。

211年、曹丕(そうひ)は五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)になると親しく毛玠を訪ね、自分がかわいがっている者を推挙してくれるよう頼む。

しかし毛玠は、「いまお話しになった者は昇進の順序にあたっておりません」と答えて聞き入れなかった。

翌212年、曹操が関中(かんちゅう)から鄴(ぎょう)に帰還すると、官庁の合併や廃止を議論させる。

毛玠は他人の要望を受け付けなかったため、当時の役人たちから煙たがられており、みな東曹を廃止したいと望んだ。

曹操はそういった事情を察していたので、かえって西曹(せいそう)のほうを廃止する。

以前、207年に曹操が柳城(りゅうじょう)を攻略した際、戦利品として得た器物のうち、特に白の屛風(びょうぶ)と肘掛けを毛玠に与えたことがあった。

毛玠は高位にありながら、いつも庶民の衣服を用い、粗末な食事を取っていた。孤児となった兄の子を心を込めて育て、お上から下賜された品物は一族の貧しい者に施し、自分の家には何も残さなかったという。

やがて右軍師(ゆうぐんし)に昇進。翌213年に魏国が建てられると尚書僕射(しょうしょぼくや)となり、再び官吏の選抜を担当した。

このころまだ太子が定められておらず、曹丕の弟で臨菑侯(りんしこう。214~221年)の曹植(そうしょく)が曹操に寵愛されていた。

毛玠は密かに曹操を諫め、袁紹が嫡子と庶子とを区別しなかったため滅亡したことに触れた。

216年、崔琰が曹操の怒りを買って自害に追い込まれると、毛玠は心中でこの仕打ちを不愉快に思う。

その後、毛玠のことを讒言(ざんげん)した者があり、曹操は腹を立てて投獄する。

大理(だいり)の鍾繇(しょうよう)が取り調べにあたったが、桓階(かんかい)と和洽(かこう)の弁護により命を救われた。

こうして毛玠は免職され、家で亡くなった(時期は不明)。曹操は柩(ひつぎ)・埋葬品・銭・帛(きぬ)を賜与し、息子の毛機を郎中(ろうちゅう)に任じた。

管理人「かぶらがわ」より

崔琰と同じく直言を憚(はばか)らず、人材の登用においても公正さを貫いた毛玠。自害を命ぜられた崔琰よりはマシに見えますが、彼も報われない最期でした。

献帝を奉戴することや跡継ぎのことなど、賢者の言はひとつなのだと実感させられます。

ただ、毛玠の死に際しての手厚い下賜品や息子の登用を見ると、曹操の心境もいくらか察せられるというもの。

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