谷利(こくり)

【姓名】 谷利(こくり) 【あざな】 ?

【原籍】 ?

【生没】 ?~?年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第067回で初登場。
【正史】 登場人物。

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孫権(そんけん)の命を救った側近

父母ともに不詳。

215年、孫権は、曹操(そうそう)配下の張遼(ちょうりょう)らが守る合肥(ごうひ)を攻めたものの、陥せずに引き揚げた。

このとき孫権はほとんどの軍勢を先発させ、淩統(りょうとう)や甘寧(かんねい)らとともに逍遥津(しょうようしん)の北に残っていたが、ここで張遼の急襲を受ける。

淩統らが命がけで敵を防ぎ止めている間に、孫権は谷利の助力で、一部が壊された橋を馬で跳び越えて危機を脱した。功により、すぐさま谷利は都亭侯(とていこう)に封ぜられたという。

もともと谷利は孫権のそばで雑用をこなしていたが、謹直な性格を見込まれて親近監(しんきんかん)に任ぜられた。彼は忠心にあふれ、決して無責任なことを言わなかったので、孫権から信頼されて寵愛を受けた。

226年、孫権は武昌(ぶしょう)で新造した大型船を長安(ちょうあん)と名付け、釣台沂(ちょうだいぎ)において進水式を執り行う。

ところがこのとき急に風が強まってきたため、谷利は操舵手(そうだしゅ)に樊口(はんこう)へ向かうよう命じた。

一方で孫権は羅州(らしゅう)まで船を進めよと命じたが、谷利は操舵手に刀を突き付けて樊口へ向かわせる。いったん樊口に入港した後、さらに風が強まり、結局そこから引き返した。

孫権が臆病さをからかうと、谷利はひざまずいて言った。

「大王さまは万乗の主であられますのに、何が起こるかわからない淵(ふち)へと軽々しくお進みになり、激浪を楽しんでおられるご様子でした」

「この船の楼は高く、もし転覆するようなことがあれば、いったい社稷(しゃしょく。土地と五穀の神。国家)をどうなさるおつもりだったのですか?」

「それゆえ私は、あえて死をもってお諫めしたのでございます」

この件があってから孫権はいっそう谷利を重んじ、彼の名を呼ばず、谷と(姓で)呼ぶようになったという。

なお、その後の谷利については記事がない。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く虞溥(ぐふ)の『江表伝(こうひょうでん)』によるもの。

当サイトの分類方法では、正史の登場人物という扱いになるのですけど、谷利は本文に名が見えているわけではなく、裴松之注のみに名が見えている人物です。

谷利のような人物まで幅広く採り上げられたことで、孫権の性格の一端が垣間見えますから、やはり裴松之の功績は非常に大きいと感じます。

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