【姓名】 公孫康(こうそんこう) 【あざな】 ?
【原籍】 遼東郡(りょうとうぐん)襄平県(じょうへいけん)
【生没】 ?~?年(?歳)
【吉川】 第121話で初登場。
【演義】 第033回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・公孫度伝(こうそんたくでん)』に付された「公孫康伝」あり。
公孫度の息子、父から遼東一帯の支配を引き継ぐ
父は公孫度だが、母は不詳。公孫恭(こうそんきょう)は弟。公孫晃(こうそんこう)と公孫淵(こうそんえん)というふたりの息子がいた。
204年、公孫康は公孫度が死去したため跡を継いだ。
207年、曹操(そうそう)が3郡(遼西〈りょうせい〉・遼東・右北平〈ゆうほくへい〉)の烏丸族(うがんぞく)を討伐し、柳城(りゅうじょう)を攻略。
公孫康は、遼東に逃げ込んだ袁熙(えんき)と袁尚(えんしょう)の兄弟の首を斬り、曹操のもとに届けた。そしてこの功により左将軍(さしょうぐん)に任ぜられ、襄平侯(じょうへいこう)に封ぜられた。
やがて公孫康が死去(時期は不明)すると、息子の公孫晃や公孫淵らが幼かったため、人々は公孫康の弟の公孫恭を擁立し、遼東太守(りょうとうたいしゅ)とした。
221年3月、魏(ぎ)の曹丕(そうひ)は、公孫恭を車騎将軍(しゃきしょうぐん)・仮節(かせつ)に任じ、平郭侯(へいかくこう)に封じた。併せて、亡き公孫康に大司馬(だいしば)の官位が追贈された。
管理人「かぶらがわ」より
公孫康については、父の公孫度や息子の公孫淵に比べると、本伝の記事が少なかったです。それでも、曹操に敗れて遼東へ逃げ込んだ袁氏兄弟を斬るという判断は賢明なものでした。
曹操はこの展開を読み切っていたようですが、もし袁氏兄弟の首が届かなければ、公孫氏の滅亡はもっと早まっていたのでしょうね。
『三国志』(魏書・韓伝〈かんでん〉)によると、公孫康は、建安(けんあん)年間(196~220年)に屯有県(とんゆうけん)以南の辺鄙(へんぴ)な土地を分割して、帯方郡(たいほうぐん)を置いたということでした。
そして配下の公孫模(こうそんぼ)や張敞(ちょうしょう)らを遣り、これまで取り残されていた中国の移住民を結集し、韓濊(かんわい。韓に近接した濊族?)を討たせています。
その結果、韓国へ流入していた移住民が少しずつ戻ってくるようになり、これ以後、倭(わ)と韓は帯方郡の支配を受けることになったのだと。
前の公孫度の記事でも触れましたが、公孫度・公孫康・公孫淵の公孫氏3代と、倭の女王である卑弥呼(ひみこ)との外交関係はとても興味深いです。
2013年3月にNHKのEテレで放送された、「さかのぼり日本史(こうして“クニ”が生まれた)」を観ました。
「魏と卑弥呼」ではなく「公孫氏と卑弥呼」という視点は、地理的に見れば当たり前なのでしょうけど、いろいろと考えさせられるところがありました。
★「さかのぼり日本史(こうして“クニ”が生まれた)」
2013/03/19放送 第1回 卑弥呼の外交戦略
2013/03/26放送 第2回 弥生時代 国際社会への参入
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