満寵(まんちょう) ※あざなは伯寧(はくねい)、魏(ぎ)の昌邑景侯(しょうゆうけいこう)

【姓名】 満寵(まんちょう) 【あざな】 伯寧(はくねい)

【原籍】 山陽郡(さんようぐん)昌邑県(しょうゆうけん)

【生没】 ?~242年(?歳)

【吉川】 第050話で初登場。
【演義】 第010回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・満寵伝』あり。

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曹氏(そうし)4代(曹操〈そうそう〉・曹丕〈そうひ〉・曹叡〈そうえい〉・曹芳〈そうほう〉)に仕えて無数の功を上げる、昌邑景侯(しょうゆうけいこう)

父母ともに不詳。息子の満偉(まんい)は跡継ぎで、このほかにも息子がいたことがうかがえる。司馬懿(しばい)の息子の司馬幹(しばかん)に嫁いだ娘もいた。

満寵は18歳で郡の督郵(とくゆう)となる。

そのころ郡内の李朔(りさく)らが私兵を抱え、民に被害を与えていた。太守(たいしゅ)の命で満寵が取り締まりにあたると、李朔らは処罰を請い、一切の劫略(きょうりゃく。脅かしてかすめ取ること)をやめたという。

後に満寵は(山陽郡の)高平県令(こうへいけんれい)を代行する。

張苞(ちょうほう)が郡の督郵となり、賄賂で職を汚して行政を混乱させると、満寵は吏卒を連れ、張苞が宿舎にいるときを狙って逮捕する。

そして、その日のうちに取り調べを終えるや、満寵は官職を捨てて帰郷した。

192年、曹操が兗州(えんしゅう)を治めると、満寵は召されて従事(じゅうじ)に任ぜられる。

196年、曹操が大将軍(だいしょうぐん)になると満寵は西曹属(せいそうぞく)となり、後に許県令(きょけんれい)に転じた。

ほどなく曹操は袁紹(えんしょう)に大将軍を譲り、新たに司空(しくう)・行車騎将軍事(こうしゃきしょうぐんじ)に就任した。

当時、曹洪(そうこう)は曹操の親愛を得て高い身分にあり、その威を借りた食客がたびたび法を犯していた。

満寵が食客を逮捕して取り調べると、曹洪は密かに手紙を遣り(赦免してほしいという)意向を伝える。

しかし、満寵は聞き入れなかった。

そこで曹洪が曹操に上言したところ、許の担当官吏が召し出される。

満寵は赦免されると察し、すぐに問題の食客を処刑した。結局、曹操も満寵の処置を評価したという。

このころ袁紹が北方におり、大きな勢力を持っていた。汝南(じょなん)は袁紹の本郡だったため、彼の門生や食客が諸県に散らばり、それぞれ兵を抱えて抵抗した。

袁紹は汝南郡汝陽県(じょようけん)の出身。

そこで曹操は、満寵を汝南太守に起用する。

満寵は着任後に500人を募り、彼らをひきいて20余りの砦(とりで)を攻略した。

それでも降伏しない指導者を招き、座上で10余人を殺害して一挙に平定。民2万戸と兵2千人が統治下に入り、農耕に従事することになった。

208年、満寵は曹操の荊州(けいしゅう)討伐に付き従う。

(赤壁〈せきへき〉での敗戦後)軍の帰還にあたり満寵も留め置かれ、行奮威将軍(こうふんいしょうぐん)として当陽(とうよう)に駐屯する。

たびたび孫権(そんけん)が東方の国境地帯を騒がせると、満寵は再び汝南太守となり、関内侯(かんだいこう)に封ぜられた。

219年、劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)に襄陽(じょうよう)が包囲されたとき、満寵は征南将軍(せいなんしょうぐん)の曹仁(そうじん)とともに樊城(はんじょう)にあった。

ところが、左将軍(さしょうぐん)の于禁(うきん)らの援軍は長雨による漢水(かんすい)の氾濫もあり、関羽に全滅させられた。

樊城は関羽の猛攻にさらされ、やがて城壁も水に漬かり、城内の人々は色を失う。

ある者が曹仁に、敵の包囲陣が完成しないうちに夜に紛れて舟で脱出するよう勧める。

すると満寵は、今回の洪水は長引かないとしたうえ、関羽が別将を郟(きょう)の辺りまで出しており、許の以南で混乱が起きていると聞いたと話す。

さらに、それでも関羽が進撃しないのは、わが軍が背後を突くのを恐れているからで、このまま我らは樊城に留まるべきだと述べた。曹仁も満寵の意見に従う。

そのうち徐晃(じょこう)らの援軍が到着。満寵も力戦して功を上げ、関羽軍を退却させる。満寵は功により安昌亭侯(あんしょうていこう)に爵位が進んだ。

220年、曹丕が魏王(ぎおう)を継ぐと、満寵は揚武将軍(ようぶしょうぐん)に転ずる。

その後、孫権軍と江陵(こうりょう)で戦って功を立てたため、満寵は改めて伏波将軍(ふくはしょうぐん)に任ぜられ新野(しんや)に駐屯した。

魏の大軍が南征し精湖(せいこ)まで進んだ際、満寵は諸軍をひきいて先鋒となり、孫権軍と水を隔てて対峙(たいじ)する。

満寵は敵の夜襲を読み切って撃破し、南郷侯(なんきょうこう)に爵位が進んだ。

このあたりの本伝の記事は時期などがイマイチわからず。

222年、満寵は節鉞(せつえつ。軍権を示す旗とまさかり)を授かる。

224年、前将軍(ぜんしょうぐん)に昇進。

226年、曹叡が帝位を継ぐと昌邑侯に爵位が進む。

228年、豫州刺史(よしゅうしし)を兼ねる。

翌229年?春、呉(ご)から降ってきた者より、孫権が江北(こうほく)へ狩猟に行くと称しながら、実際は出撃態勢を整えていることが伝わる。

満寵は西陽(せいよう)が狙われると予測して備えを固めたところ、これを聞いた孫権も引き揚げた。

同年秋、曹叡は曹休(そうきゅう)を廬江(ろこう)から合肥(ごうひ)へ向かわせ、満寵を夏口(かこう)へ向かわせる。

満寵は上奏し、曹休の進路に潜む危険を指摘したうえ、無彊口(ぶきょうこう)に入ったら十分な備えが必要だと述べた。

だが、上奏の返書が届かないうちに、曹休は敵地深くへ進んでしまう。

呉軍は無彊口を通って夾石(きょうせき)を遮断。曹休は戦ったものの敗れ、朱霊(しゅれい)らに助けられて何とか帰還した。

この年に曹休が死去したため、満寵は前将軍のまま、代わって都督揚州諸軍事(ととくようしゅうしょぐんじ)となった。

汝南の兵士や民は(これまで汝南太守を務めた)満寵を慕って街道をついていき、この動きを止められないほどだった。

護軍(ごぐん。官名)が主導者の処刑を上奏したところ、詔(みことのり)により満寵に1千の親衛兵の同行が許され、ほかはみな不問とされた。

なぜか本伝では、このあたりの出来事が太和(たいわ)3(229)年のことのように書かれている。だが『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)などにあるように、曹休が死去したのは太和2(228)年である。

翌230年、満寵は征東将軍(せいとうしょうぐん)に昇進。

同年冬、孫権が合肥攻めを宣伝すると、満寵は上奏し、兗州と豫州の諸軍を集めた。孫権が引くと、満寵にも引き揚げの詔が下る。

満寵は孫権の退却を見せかけと判断し、自軍を引き揚げないよう上奏。10日余りすると、再び呉軍が現れて合肥を襲ったものの、勝利を得ることなく帰還した。

翌231年、呉の孫布(そんふ)の使いが揚州に着き、帰順を願い出る。道が遠くて自分では行けないから、迎えの軍を出してほしいとも伝えてきた。

揚州刺史の王淩(おうりょう)は孫布の文書を差し出したうえ、兵馬をもって出迎える許可を求める。

満寵は孫布の偽りと見て王淩に兵を与えず、返書を遣り、秘密裏に計画を立てるよう伝えた。

ちょうど満寵が入朝の命を受けたので、留府長史(りゅうふちょうし)にこう命じた。

「もし王淩が孫布を迎えに行こうとしても、兵を与えてはならぬ」

王淩は要求が容れられなかったので、配下の督将(とくしょう)に700の歩騎を付けて迎えに行かせるも、彼らは孫布の夜襲を受けた。督将は逃走し、歩騎も半数以上が死傷した。

以前、満寵は王淩と共同で事にあたり仲たがいした。

王淩の支持者から、満寵は老いと疲労で惑乱していると非難の声が上がったため、曹叡は満寵を召し寄せることにしたのだった。

ところが、曹叡に謁見した満寵は健康そうだったので、そのまま任地へ帰された。

翌232年、呉将の陸遜(りくそん)が廬江に向かってくる。

魏の論客はみな速やかに駆けつけるべきだと述べたが、満寵は廬江の守りに自信を見せ、軍を整え陽宜口(ようぎこう)へ向かう。

呉軍は魏の大軍が東へ下ったと聞くと、その夜のうちに遁走(とんそう)した。

このころ孫権が毎年のように来攻の計画を立てていたため、翌233年、満寵は上奏文を奉り、合肥城の地勢的な不利を述べ、西方30里にある要害に新たな城を築くよう勧める。

これに護軍将軍の蔣済(しょうせい)が反対し、淮北(わいほく)の守備線を保持すべきだと主張した。

それでも満寵は重ねて上奏文を奉り、『孫子(そんし)』を引いて築城の許しを求める。

尚書(しょうしょ)の趙咨(ちょうし)が満寵の策を評価したこともあり、ついに曹叡は聴許の詔を下した。

この年、孫権が自ら出撃し、合肥新城を包囲しようとした。しかし、城が水から遠かったため、20日経っても下船を決断できない。

満寵は諸将に言った。

「孫権は、敵が城を移すまで追い込まれたと、軍中で得意になっているに違いない。いま大挙して来攻したのは、一時の功を求めているからだろう」

「ここ(合肥新城)まで来る勇気こそないが、必ず上陸して兵威を誇示し、余裕のあるところを見せるはずだ」

そこで満寵は密かに歩騎6千を出し、肥城の隠れ場所で呉軍を待ち受ける。

やはり孫権は兵を上陸させたが、満寵の伏兵に急襲されて数百人が討たれた。水に逃げ走って死ぬ者もいたという。

翌234年、またも孫権自ら10万と号する軍勢をひきい、合肥新城に到達する。

満寵は救援に駆けつけて数十人の壮士を募ると、たいまつに麻の油を注ぐ。そして風上から火を放ち、呉軍の攻城兵器を焼き払い、孫権の甥の孫泰(そんたい)を射殺した。

これを受け、孫権は軍を引いた。

翌235年春、孫権が数千家の兵士と家族を送り込み、江北(こうほく)で田作を行わせる。8月の収穫期を迎えると、男女は野に広がり、呉兵も城を離れた。

満寵はこれを襲撃の好機と捉え、長吏(ちょうり。県令や県長)に軍を指揮させ、江に沿い東へ下るよう命ずる。

魏軍は呉の諸屯営を撃破し、穀物を焼き払って帰還した。満寵に功をたたえる詔が下り、鹵獲品(ろかくひん)は将兵への恩賞とされた。

238年、満寵は老齢のため召し還され、太尉(たいい)に昇進する。

満寵は財産を気にかけなかったので家に余財がなかった。曹叡は詔を下し、田10頃(けい)・穀物500斛(こく)・銭20万を賜与したうえ、彼の節義を明らかにする。

満寵は前後にわたる加増を受け、封邑(ほうゆう)は9,600戸に上った。さらに、息子と孫ふたりが亭侯に封ぜられた。

242年、満寵が死去すると景侯と諡(おくりな)され、息子の満偉が跡を継いだ。

管理人「かぶらがわ」より

満寵は曹氏に仕えた期間が長く武功も多いので、この記事も短くはできませんでした。孫権に何度も悔しい思いをさせた男、とも言えるでしょう。

数々の戦いをくぐり抜けていますので、封邑9,600戸もうなずけます。小説などでは陰に隠れがちですけど、偉大な将軍のひとりですね。

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