公孫度(こうそんたく)

【姓名】 公孫度(こうそんたく) 【あざな】 升済(しょうせい)

【原籍】 遼東郡(りょうとうぐん)襄平県(じょうへいけん)

【生没】 ?~204年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第033回で初登場。
【正史】 登場人物。『魏書(ぎしょ)・公孫度伝』あり。

遼東一帯を支配して「遼東侯(りょうとうこう)・平州牧(へいしゅうのぼく)」を自称

父は公孫延(こうそんえん)だが、母は不詳。幼名を「豹(ほう。公孫豹)」と言った。息子の公孫康(こうそんこう)は跡継ぎで、公孫恭(こうそんきょう)も同じく息子。

公孫度は、父の公孫延がある事件に関わり役人から追及を受けたため、玄菟郡(げんとぐん)に移住して郡吏となった。

玄菟太守(げんとたいしゅ)の公孫ヨク(こうそんよく。王+或)は息子の公孫豹を18歳で亡くしていた。公孫度は公孫豹と同い年で名(幼名)も同じだったため、公孫ヨクにかわいがられた。公孫ヨクは公孫度に師を付け学問させたり、妻を迎えてやったりもした。

公孫度は有道(ゆうどう)の科に推挙され「尚書郎(しょうしょろう)」に任ぜられ、やがて「冀州刺史(きしゅうのしし)」まで昇進したが、流言のため罷免された。

189年になり、董卓(とうたく)配下で「中郎将(ちゅうろうしょう)」を務めていた同郡出身の徐栄(じょえい)が、公孫度を「遼東太守」に推薦した。だが、公孫度は玄菟郡の小役人から成り上がった者だったので、遼東郡の人々には軽視された。

これより先のこと、襄平県令(じょうへいけんれい)の公孫昭(こうそんしょう)が公孫度の息子の公孫康を召し出し「伍長(ごちょう)」に任じていた。

公孫度は「遼東太守」として着任すると、公孫康を微官にしか就けなかった公孫昭を逮捕し、襄平の市場で鞭(むち)打って殺した。

そして遼東の豪族や名家のうち、以前から公孫度に冷淡だった田韶(でんしょう)らはみな法律によって処刑された。こうして滅亡した家が100余に及び、郡中が震え上がった。

公孫度は東は高句驪(こうくり。高句麗)を、西は烏丸(うがん)を、それぞれ討伐し、その威勢が国外にまでとどろいた。

翌190年、「反董卓連合軍」が決起し中原(ちゅうげん。黄河〈こうが〉流域)が騒乱に陥ると、公孫度は重臣の柳毅(りゅうき)や陽儀(ようぎ)らに王位への野望を語った。

もと河内太守(かだいたいしゅ)の李敏(りびん)は遼東で名の知れた人物であり、公孫度の行いを不快に思っていた。

李敏は公孫度に殺されることを恐れ、家族を連れて海路で逃亡した。このことを知った公孫度は激怒し、彼の父の墓を発(あば)いて柩(ひつぎ)を叩き割り、遺体を焼き捨てたうえ一族の者を誅殺した。

公孫度は遼東郡を分割して「遼西中遼郡(りょうせいちゅうりょうぐん)」を新設し「太守」を置く。また、海を渡って東萊郡(とうらいぐん)の諸県も支配下に入れ、「営州刺史(えいしゅうのしし)」を置いた。

こうして自立の意思を示すと「遼東侯・平州牧」と称し、亡き父の公孫延に「建義侯(けんぎこう)」の称号を追贈した。

さらに漢(かん)の二祖(高祖〈こうそ〉と光武帝〈こうぶてい〉)の霊廟(れいびょう)を建立。天子(てんし)に代わり政務を執る権限を得たという体裁を整え、襄平城の南に壇(だん。天を祭るために土盛りしたもの)と墠(ぜん。地を祭るために地面を平らにしたもの)を設けて天と地を祭った。

籍田(せきでん。天子が神に供えるための穀物を自ら耕作する)の儀式や閲兵式を執り行い、鸞車(らんしゃ。鈴を付けた天子の車)に乗り、9旒(りゅう。9本の飾りが付いた天子の旗)を用い、旄頭(ぼうとう。から牛の尾を付けた旗)をなびかせた羽林騎(うりんき。近衛兵)に護衛させた。これらは天子にのみ許されたものである。

204年、曹操(そうそう)の上表により、公孫度は「武威将軍(ぶいしょうぐん)」に任ぜられ「永寧郷侯(えいねいきょうこう)」に封ぜられた。

しかし、公孫度は「私は遼東の王である。何が永寧郷侯だ!」と不満を述べ、その印綬(いんじゅ)を武器庫にしまい込んだ。この年に公孫度が死去すると息子の公孫康が跡を継ぎ、(弟の)公孫恭が「永寧郷侯」に封ぜられた。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、公孫度が簒奪(さんだつ)の野心を抱いていたころ、襄平県の延里(えんり)にあった社(やしろ)に大きな石が出現したということです。石は長さが1丈(じょう)余りあり、下に3つの小さな石が付いていて、大きな石の脚の役目をしているようだったと。

この石を見たある人が、公孫度にこう言って喜ばせます。

「これは漢の宣帝(せんてい。在位、前73~前49年)の御世(みよ)の『冠石の瑞祥(ずいしょう)』と同じです。また、村の名(延里)は先君(公孫延)の名と同じでございます。社は土地を支配するものですから、まさしく殿が土地を支配(天子になる意)され、三公(3つの小さい石になぞらえる)が殿を補佐するに違いない、明らかな兆候でございましょう」

『三国志』にはこういった吉兆や凶兆の話が数多く出てきますが、当時の世界観を知るうえで参考になりますね。

なお「冠石の瑞祥」については、以下のような訳者注(井波律子〈いなみ・りつこ〉氏)がありました。

「前漢(ぜんかん)の昭帝(しょうてい。在位、前86~前74年)の時代に泰山郡(たいざんぐん)の萊蕪山(らいぶざん)で、やはり大きな石がひとりでに突っ立ち、3つの小さな石が脚となる異変があった。それは、のちに宣帝が即位する瑞兆とされた」

公孫度・公孫康・公孫淵(こうそんえん)の公孫氏3代と、倭(わ)の女王である卑弥呼(ひみこ)との外交関係はとても興味深いです。

2013年3月にNHKのEテレで放送された、「さかのぼり日本史(こうして“クニ”が生まれた)」を見ました。「魏と卑弥呼」ではなく「公孫氏と卑弥呼」という視点は、地理的に見れば当たり前なのでしょうけど、いろいろと考えさせられるところがありました。

「さかのぼり日本史(こうして“クニ”が生まれた)」
2013/03/19放送 第1回 卑弥呼の外交戦略
2013/03/26放送 第2回 弥生時代 国際社会への参入

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