周瑜(しゅうゆ)

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【姓名】 周瑜(しゅうゆ) 【あざな】 公瑾(こうきん)

【原籍】 廬江郡(ろこうぐん)舒県(しょけん)

【生没】 175~210年(36歳)

【吉川】 第054話で初登場。
【演義】 第015回で初登場。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・周瑜伝』あり。

華麗さと内実とを兼ね備えた名将

父は周異(しゅうい)だが、母は不詳。兄がいたことがうかがえる。妻は橋氏(きょうし)姉妹の妹(小橋〈しょうきょう〉)。周循(しゅうじゅん)と周胤(しゅういん)という息子がおり、娘の周氏(しゅうし)は孫登(そんとう)に嫁いだ。

父の従兄弟の周景(しゅうけい)とその息子の周忠(しゅうちゅう)は後漢(ごかん)で「太尉(たいい)」を務め、周異は「洛陽県令(らくようけんのれい)」を務めた。周瑜はこのような名門に生まれ、成長するに従い立派な風貌を備える。

189年、孫堅(そんけん)は董卓(とうたく)討伐の義兵を挙げると家族を舒に移したが、息子の孫策(そんさく)と周瑜が同い年だったこともあり、ふたりは特に親しく付き合った。

周瑜は道路の南側の大きな屋敷を譲って孫策の家族を住まわせ、彼の母にも拝礼し、生活に必要な品物を融通し合ったという。

従父(おじ)の周尚(しゅうしょう)が「丹楊太守(たんようのたいしゅ)」に任ぜられると、周瑜はご機嫌伺いに行く。このころ孫策は軍勢をひきい、長江(ちょうこう)を渡るべく歴陽(れきよう)まで来ており、周瑜に急使を遣って連絡を取る。

周瑜は兵をそろえて孫策と合流し、横江(おうこう)と当利(とうり)を攻略。続いて長江を渡り秣陵(ばつりょう)を攻め、笮融(さくゆう)や薛礼(せつれい)を撃破した。

さらに向きを変え湖熟(こじゅく)や江乗(こうじょう)から曲阿(きょくあ)まで進出すると、劉繇(りゅうよう)が逃亡(194年のこと)。孫策軍はこの時点で数万に増えた。

ここで孫策は呉および会稽(かいけい)両郡の攻略に向かい、周瑜は別れて丹楊を守る。だがしばらくして、袁術(えんじゅつ)が従弟の袁胤(えんいん)を新たな「丹楊太守」に任命したため、周瑜は周尚とともに寿春(じゅしゅん)へ赴く。

袁術は周瑜を配下に加えたがったが、周瑜は袁術の器量を見抜いて応じず、「居巣県長(きょそうけんのちょう)」への就任を願い出て許され、うまく寿春を離れる。

198年、周瑜は居巣から呉県に行き、再び孫策と合流し「建威中郎将(けんいちゅうろうしょう)」に任ぜられ、2千の兵と50頭の軍馬を授けられた。まだ周瑜が24歳と若年だったことから、人々は親しみをこめ、彼を「周郎(周の若さま)」と呼んだという。

やがて周瑜は牛渚(ぎゅうしょ)の守備を任され「春穀県長(しゅんこくけんのちょう)」も兼ねる。

孫策が荊州(けいしゅう)への進出をもくろむと、周瑜は「中護軍(ちゅうごぐん)」として「江夏太守(こうかのたいしゅ)」を兼ね、孫策に付き従い皖(かん)を攻略。このとき絶世の美女である橋公(きょうこう)の娘ふたりを捕らえたので、孫策が姉の大橋(だいきょう)を、周瑜が妹の小橋を、それぞれ妻とした。

さらに尋陽(じんよう)まで進み劉勲(りゅうくん)を撃破。続いて江夏を攻略すると、引き返して豫章(よしょう)と廬陵(ろりょう)も平定し、周瑜は巴丘(はきゅう)に駐屯する。

200年、孫策が急死し弟の孫権(そんけん)が跡を継ぐ。周瑜は兵をひきいて葬儀に駆けつけそのまま呉県にとどまり、長史(ちょうし)の張昭(ちょうしょう)とともにすべての事務を統括した。

206年、周瑜は孫瑜(そんゆ)らとともに麻屯(まとん)と保屯(ほとん)の砦を攻撃。頭目をさらし首にして1万余の捕虜を得ると、引き返して宮亭(きゅうてい。官亭〈かんてい〉かも?)を守る。

劉表(りゅうひょう)配下で江夏太守の黄祖(こうそ)がトウ龍(とうりょう。登+阝)に命じ、数千の兵をもって柴桑(さいそう)に侵入してくると、周瑜はこれを追撃し生け捕ったトウ龍を呉へ護送させた。

208年、孫権が江夏討伐に乗り出すと、周瑜は「前部大督(ぜんぶだいとく。先鋒部隊の指揮官)」を務めた。

同年9月、曹操(そうそう)が荊州へ侵攻すると劉ソウ(りゅうそう。王+宗)は州を挙げて降伏。曹操の水軍は数十万の規模にまで膨らみ、孫権配下の将士を恐れさせた。

孫権が群臣の意見を聴くと、多くの者は曹操を迎え入れるよう勧めたが、ただ周瑜と魯粛(ろしゅく)のみが反対し抗戦を主張。ついに孫権から開戦の決断を引き出す。

このころ劉備(りゅうび)は曹操軍を避け、長江を渡り南へ逃げようとしていたが、当陽(とうよう)で魯粛に出会うと孫権と共同で曹操にあたる話がまとまった。

こうして周瑜は黄蓋(こうがい)の献策による偽降および火計を成功させ、曹操軍に疫病が広がっていたこともあり「赤壁(せきへき)の戦い」で大勝を収める。

大敗を喫した曹操は南郡(なんぐん)まで引き江陵(こうりょう)に立てこもったが、そのうち曹仁(そうじん)を城にとどめ、自身は許(きょ)へ戻った。

周瑜は程普(ていふ)とともに軍勢を進め、長江を隔てて曹仁と対峙(たいじ)する。このとき前もって甘寧(かんねい)に命じ夷陵(いりょう)を攻略させた。すると江陵の曹仁が歩騎を割き、別動部隊を送り込んで夷陵を攻囲したため、甘寧から救援要請が届く。

周瑜は呂蒙(りょもう)の献策を容れ、江陵攻めの軍営に淩統(りょうとう)をとどめると、自身は呂蒙とともに長江をさかのぼり甘寧の包囲を解いた。

次いで周瑜は長江を渡り、日を定めて曹仁軍と激突する。ここでは自ら敵陣に乗り込むも、流れ矢を受けて重傷を負い自陣に引き揚げた。

曹仁が周瑜の具合が思わしくないことを聞きつけ攻め寄せると、周瑜は己を励まして立ち上がり、営内を巡見してみせる。この様子を見た曹仁は兵を引いた。

翌209年、曹仁らが江陵から撤退した後、周瑜は「偏将軍(へんしょうぐん)・南郡太守」に任ぜられ江陵に駐屯し、下雋(かしゅん)・漢昌(かんしょう)・劉陽(りゅうよう)・州陵(しゅうりょう)の4県を封邑(ほうゆう)として授けられた。

一方で劉備は「左将軍(さしょうぐん)・荊州牧(けいしゅうのぼく)」となり公安(こうあん)に将軍府を置いた。

翌210年、益州牧(えきしゅうぼく)の劉璋(りゅうしょう)が漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)の攻撃に悩まされている状況を見ると、周瑜は京城(けいじょう。京口〈けいこう〉)へ行き孫権に目通りし、奮威将軍(ふんいしょうぐん)の孫瑜とともに蜀(しょく)への進攻を願い出る。

孫権の許しを得ると、周瑜は江陵に戻り遠征の準備を整えようとしたが、道中の巴丘で病死。このとき36歳だった。孫権は喪服を着けて哀悼の意を表し、柩(ひつぎ)を蕪湖(ぶこ)まで出迎えたうえ、葬儀に関わる一切の費用を遺族に給付した。

本伝の裴松之注(はいしょうしちゅう)によると、ここでいう「巴丘」は当時(南朝宋〈なんちょうそう〉)の巴陵県(はりょうけん)であり、先に豫章および廬陵の平定後に駐屯した地とは同名の別の場所とのこと。

管理人「かぶらがわ」より

本伝によると、周瑜は若いころから音楽にも精通しており、杯が三巡した後でも演奏に誤りがあれば必ず気づき、楽人(がくじん)のほうを振り返ったといいます。そのため当時の人々は「曲に誤りあり。周郎顧みる」と歌い伝えたのだとも。

周瑜が劉備に先んじて益州へ入るようなことになれば、諸葛亮(しょかつりょう)がどう対処したのか興味深いのですけど……。自分の寿命ばかりはどうにもなりませんね。

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