陸瑁(りくぼう)

【姓名】 陸瑁(りくぼう) 【あざな】 子璋(ししょう)

【原籍】 呉郡(ごぐん)呉県(ごけん)

【生没】 ?~239年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。『呉書(ごしょ)・陸瑁伝』あり。

孫権(そんけん)の遼東(りょうとう)遠征を諫止

父は陸駿(りくしゅん)だが、母は不詳。陸遜(りくそん)は兄。陸滂(りくぼう)・陸喜(りくき)・陸英(りくえい)・陸偉(りくい)・陸顔(りくがん)はみな息子。

陸喜以外の息子たちの名は『三国志』には見えない。

陸瑁は若いころから学問を好み、義にも篤かった。陳国(ちんこく)の陳融(ちんゆう)、陳留(ちんりゅう)の濮陽逸(ぼくよういつ)、沛郡(はいぐん)の蔣纂(しょうさん)、広陵(こうりょう)の袁迪(えんてき)ら、貧しくとも志のある者から頼られると、陸瑁は少ない物でも彼らと分け合い苦楽をともにしたという。

また、同じ呉郡の出身で会稽(かいけい)に住んでいた徐原(じょげん)が死去した際、遺書で幼い子どもたちのことを託されると、陸瑁は徐原の墓を建てたうえ、子どもらも引き取り養育した。

219年、従父(おじ)の陸績(りくせき)が32歳の若さで死去し、ふたりの息子とひとりの娘が残された際にも、陸瑁は彼らを引き取って養育し、成長したのちもとの家へ戻らせた。

陸瑁は州や郡から招かれたり推挙されたりしたが、まったく応じようとしなかった。

このころ尚書(しょうしょ)の曁豔(きえん)が盛んに人事評価を行い、三署に所属する官僚の働きを等級づけし、ささいな失敗まで採り上げ降格させていた。

陸瑁は曁豔に手紙を遣り、今は王業の基礎が築かれたばかりで、天下が統一に向かう途上にあるから、かつて漢(かん)の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)が多少の欠点には目をつぶり、積極的に人材を登用した時期と重なると述べたうえ、厳格すぎる人事評価は現状にふさわしくないと助言する。

しかし曁豔は陸瑁の助言を聞き入れず、やがて讒言(ざんげん)に遭い自殺に追い込まれた(224年のこと)。

232年、陸瑁のもとに公車が差し向けられると、ついに孫権の招きに応じて「議郎(ぎろう)・選曹尚書(せんそうしょうしょ)」に就任する。

この年、公孫淵(こうそんえん)が呉に帰属する意思を伝えてくると、孫権は張弥(ちょうび)と許晏(きょあん)らを遼東へ遣わし、公孫淵を「燕王(えんおう)」に封じようとした。

ところが翌233年、張弥や許晏らは公孫淵に斬られてしまい、さらにその首が魏(ぎ)へ送られる。この件を知り激怒した孫権が自ら公孫淵を討伐すると言いだすと、陸瑁は重ねて上疏を行って諫め、遼東への遠征を思いとどまらせた。

のち陸瑁は239年に死去した。

管理人「かぶらがわ」より

陸瑁の義俠心(ぎきょうしん)には頭が下がりますけど、より驚かされたのは孫権の発想のほうでした。公孫淵に一杯食わされたとはいえ、怒りに任せて遼東への遠征まで考えるとは……。

陸瑁を始め、多くの家臣が諫めてくれてよかったですね。それ以前には劉備(りゅうび)の東征失敗なんて例もありましたからね。

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