董允(とういん) ※あざなは休昭(きゅうしょう)

【姓名】 董允(とういん) 【あざな】 休昭(きゅうしょう)

【原籍】 南郡(なんぐん)枝江県(しこうけん)

【生没】 ?~246年(?歳)

【吉川】 第259話で初登場。
【演義】 第085回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・董允伝』あり。

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諸葛亮(しょかつりょう)の信任を得て、厳格な態度で劉禅(りゅうぜん)を支える

父は董和(とうか)だが、母は不詳。息子についても不詳だが、孫として董宏(とうこう)の名が見えている。

董允は、劉備(りゅうび)が劉禅を太子に立てた際に舎人(しゃじん。太子舎人)となり、後に洗馬(せんば。太子洗馬)に移った。

219年に劉禅が(漢中王〈かんちゅうおう〉の)王太子に立てられたときのことなのか、221年に(蜀の)皇太子に立てられたときのことなのかイマイチわからず。おそらく後者だと思われるが……。

223年、劉禅が帝位を継ぐと、董允は黄門侍郎(こうもんじろう)に昇進。

227年、丞相(じょうしょう)の諸葛亮が「出師表(すいしのひょう)」を奉呈し、北伐に着手。このとき董允は特に指名されて、侍中(じちゅう)の郭攸之(かくゆうし)や費禕(ひい)らとともに宮中の諸事を取り仕切る。

次いで諸葛亮が費禕を参軍(さんぐん)に起用したため、代わって董允が侍中に昇進し、虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)を兼ねた。

同僚の郭攸之はおとなしい性格で、劉禅に献言するのはもっぱら董允の役目だった。

劉禅は後宮を美女で満たしたがったが、董允は、天子(てんし)の后妃は12人にすぎなかったという古代の建前を持ち出し、あくまで承知しなかった。

後に尚書令(しょうしょれい)の蔣琬(しょうえん)が益州刺史(えきしゅうしし)を兼ねた際、上疏して費禕や董允に地位を譲ろうとする。

また蔣琬は別に上表し、董允に爵土を賜り、彼の勲功を褒賞してほしいと述べたものの、董允は固辞して受けなかった。

やがて劉禅は宦官(かんがん)の黄皓(こうこう)を寵愛するようになる。そこで董允は主君を矯正しようと考え、たびたび黄皓を責め立てた。

そのため黄皓は董允を恐れ、悪事を働くこともできず、董允の存命中は黄門丞(こうもんじょう)にすぎなかった。

243年、董允は輔国将軍(ほこくしょうぐん)の官位を加えられる。

翌244年、董允は侍中・守尚書令のまま、大将軍(だいしょうぐん)の費禕の次官となり、246年に死去した。

管理人「かぶらがわ」より

『三国志』(蜀書・費禕伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『費禕別伝(ひいべつでん)』によると、235年に蔣琬に代わって尚書令となった費禕は、理解力が人並み外れており、報告書にサッと目を通しただけで内容を把握できたそうです。

さらに政務の合間に賓客と会い、飲食をしたり、博奕(ばくえき。ばくち)まで楽しみながら、仕事を怠ることはなかったという。

後に董允が費禕に代わって尚書令になると、前任者の費禕の仕事ぶりをまねてみますが、10日もすると業務が滞ってしまいました。そこで董允は嘆息し、自分と費禕の力量の差を素直に認めたのでした。

こうした様子からは董允の謙虚さがうかがえ、劉備や諸葛亮の抜てきが適切だったことも併せて示していると思います。

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