李豊(りほう)A ※あざなは安国(あんこく)

【姓名】 李豊(りほう) 【あざな】 安国(あんこく)

【原籍】 馮翊郡(ひょうよくぐん)東県(とうけん)

【生没】 ?~254年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 第109回で初登場。
【正史】 登場人物。

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曹爽(そうそう)と司馬懿(しばい)のどちらにも付こうとせず、結局は破滅

父は李義(りぎ。一名を李恢〈りかい〉ともいう)だが、母は不詳。李翼(りよく)と李偉(りい)は弟。李韜(りとう)という息子がいた。

李豊は無位無官だった17、8歳のころから、住んでいた鄴(ぎょう)の周辺で清廉潔白との評判を得ていた。また、彼には人物を見分ける才能があり、皆の期待を集めた。

曹丕(そうひ)の黄初(こうしょ)年間(220~226年)、李豊は父の李義の縁故により、召されて軍に入る。後に軍に付き従って許昌(きょしょう)へ移ると、彼の名声は日増しに高まったという。

しかし李義は、息子のこうした状況が好ましいと思えず、門を閉ざして来客を断るよう命じた。

むかし曹叡(そうえい)が東宮(とうぐう)にいたころ(イマイチ時期はつかめず)、李豊は文学(ぶんがく。官名)のひとりだった。

226年に曹叡が即位した後、呉(ご)の降伏者から、魏の名士として李安国(安国は李豊のあざな)の名が江東(こうとう)まで伝わっていることを聞く。

このころ李豊は黄門郎(こうもんろう)にすぎなかったが、後に騎都尉(きとい)・給事中(きゅうじちゅう)に栄転した。

239年、曹叡が崩御(ほうぎょ)すると李豊は永寧太僕(えいねいたいぼく)に転じたものの、その後は名声が実質を上回っているとして、あまり用いられなくなった。

それでも曹芳(そうほう)の正始(せいし)年間(240~249年)には、侍中(じちゅう)・尚書僕射(しょうしょぼくや)に栄転する。

だが、李豊は尚書台に所属しながらも、病気を理由によく休む。当時の制度では、病欠が100日に達すると職を免ぜられることになっていた。

李豊は病欠が(100日まで)あと数十日になると、しばらく起きて出勤し、再び寝込むということを繰り返す。こうしたやり方を数年間も続けた。

後に曹爽が実権を握ると、李豊は曹爽と司馬懿のどちらにも付かず離れず、態度を明確にしなかった。

249年、曹爽が司馬懿により刑死に追いやられ、252年には司馬懿も死去する。

このころ大将軍(だいしょうぐん)の司馬師(しばし)は、欠員となっていた中書令(ちゅうしょれい)に李豊を起用した。

李豊は気乗りしなかったが、自分が帝室の姻戚であることを利用し、曹芳に近づこうと考えて承諾。

それから2年ほど経つと、たびたび曹芳は李豊ひとりを召し寄せ、語り合うようになる。

李豊は司馬師に信任されていたが、実のところ太常(たいじょう)の夏侯玄(かこうげん)を慕っていた。そこで皇后の父である光禄大夫(こうろくたいふ)の張緝(ちょうしゅう)と結託し、夏侯玄に政治を執らせようとする。

このとき李豊は朝廷で権力を握っており、息子の李韜が斉長公主(せいちょうこうしゅ。曹叡の娘)を娶(めと)っているうえ、張緝と同じ馮翊の出身でもあった。こうしたことから、張緝は李豊の計画に加担した。

李豊は、密かに弟の兗州刺史(えんしゅうしし)の李翼に参朝を願い出るよう伝え、その軍勢と協力して決起しようと考えた。だが、李翼の参朝は許可されない。

254年、李豊は計画を変更し、曹芳が貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)の任命のために宮殿の軒先まで出御(しゅつぎょ)する機会を利用しようと考える。

その際に曹芳に決断を迫り、官僚や諸門にある近衛兵をもって司馬師を誅殺し、夏侯玄と交代させたうえ、張緝を驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)に据えるという算段だった。

李豊は内密に黄門監(こうもんかん)の蘇鑠(そしゃく)、永寧署令(えいねいしょれい)の楽敦(がくとん)、宂従僕射(じょうじゅうぼくや)の劉賢(りゅうけん)らの承諾を取りつけた。

ところが司馬師が陰謀を耳にし、李豊に会いたいと申し入れる。李豊が事情を知らずに出向くと、その場で殺害されてしまった。

夏侯玄や張緝らは逮捕され、廷尉(ていい)のもとへ送られる。詔(みことのり)が下り、李韜と斉長公主との間に生まれた3人の子は死刑を免ぜられた。

そして、李豊・夏侯玄・張緝・楽敦・劉賢らは三族(父母・妻子・兄弟姉妹、異説もある)皆殺しとされ、残りの親族も楽浪(らくろう)へ流された。

李豊は曹叡と曹芳の2代にわたって仕えたものの、家計に配慮せず、官僚の俸給だけで暮らした。

息子の李韜にも制約を課し、他人の財産を侵奪することを許さない。また、金銭や絹を賜ると、いつも親戚に分け与えてしまう。宮女を賜った際にも、普通なら息子や弟に与えるところ、李豊は外甥(がいせい。姉妹の子)に与えた。

李豊の死後、担当官吏が家を調べて財産を没収しようとしたが、余分な蓄えはまったくなかったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯尚伝〈かこうしょうでん〉)に付された「夏侯玄伝」とその裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』によるもの。

なお、『三国志』(魏書・裴潜伝〈はいせんでん〉)の裴松之注に引く同じ『魏略』では、李豊のあざなを「宣国(せんこく)」としており、表記に揺れが見られます。ほかの箇所では「安国」としているので、一応こちらを採りました。

もし司馬師が殺害されていたら、弟の司馬昭(しばしょう)もいるとはいえ、やはり大きな影響が出ていたと思われます。

李豊自身は権力を笠に着るような悪さをしなくても、どっち付かずの態度を取り続けると、結局はこうなってしまう――。出世してもしなくても、官僚はなかなか大変ですね。

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