張飛(ちょうひ) ※あざなは益徳(えきとく)、蜀(しょく。季漢〈きかん〉、蜀漢)の西郷桓侯(せいきょうかんこう)

【姓名】 張飛(ちょうひ) 【あざな】 益徳(えきとく)

【原籍】 涿郡(たくぐん)

【生没】 ?~221年(?歳)

【吉川】 第004話で初登場。
【演義】 第001回で初登場。
【正史】 登場人物。『蜀書(しょくしょ)・張飛伝』あり。

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劉備(りゅうび)と関羽(かんう)に兄事して武勇を発揮するも、あえない最期、西郷桓侯(せいきょうかんこう)

父母ともに不詳。張苞(ちょうほう)と張紹(ちょうしょう)という息子がおり、跡を継いだのは張紹。ふたりの娘は、前後して劉禅(りゅうぜん)の皇后に立てられた。

張飛は若いころ関羽とともに劉備に仕える。関羽のほうが数歳年長だったので、もともと彼に兄事していたという。

198年、劉備が、曹操(そうそう)とともに呂布(りょふ)を撃破して許(きょ)へ戻ると、張飛は中郎将(ちゅうろうしょう)に任ぜられた。

そのうち劉備は曹操と決別し、袁紹(えんしょう)や劉表(りゅうひょう)を頼ることになる。

208年に劉表が死去したとき、すでに曹操が荊州(けいしゅう)へ進軍していたため、樊(はん)にいた劉備は江南(こうなん)へ向かう。

だが、曹操軍による一昼夜の追撃の結果、当陽(とうよう)の長阪(ちょうはん)で追いつかれた。劉備は妻子を捨てて逃げ、命を受けた張飛は、わずか20騎で後方を守る。

張飛は橋を切り落とすと、目を怒らせ、矛を小脇に抱えて言った。

「俺は張益徳である。さあ来い。決死の闘いをしようぞ!」

しかし、敵の中にあえて近づく者がおらず、劉備らは危難を免れた。

(この年の赤壁〈せきへき〉の戦いの後、)劉備が江南の諸郡を手にすると、張飛は宜都太守(ぎとたいしゅ)・征虜将軍(せいりょしょうぐん)に任ぜられ、新亭侯(しんていこう)に封ぜられる。後には南郡太守(なんぐんたいしゅ)に転じた。

211年、劉備は益州(えきしゅう)へ入り、(翌212年に葭萌〈かぼう〉から反転して)劉璋(りゅうしょう)を攻める。

214年春、荊州に残っていた張飛は、諸葛亮(しょかつりょう)らとともに長江(ちょうこう)をさかのぼり、手分けして益州の郡県を平定。

江州(こうしゅう)では巴郡太守(はぐんたいしゅ)の厳顔(げんがん)を撃破し、彼を生け捕りとする。それでも厳顔の態度が見事だったため、釈放したうえで賓客とした。

こうして張飛は各地で勝利を収めながら、成都(せいと)で劉備との合流を果たす。

同年夏、劉璋が劉備に降伏。益州が平定されると、張飛は諸葛亮・法正(ほうせい)・関羽と同じく、金500斤、銀1千斤、銭5千万、錦1千匹を賜り、巴西太守(はせいたいしゅ)に任ぜられた。

翌215年、曹操が漢中(かんちゅう)の張魯(ちょうろ)を降すと、張郃(ちょうこう)に巴西への進軍を命ずる。

張飛は、宕渠(とうきょ)・蒙頭(もうとう)・盪石(とうせき)における50日以上の対峙(たいじ)を経て、ついに張郃の撃退に成功した。

219年、劉備が漢中王(かんちゅうおう)になると、張飛は右将軍(ゆうしょうぐん)・仮節(かせつ)に任ぜられた。

この年、荊州で敗れた関羽が、孫権(そんけん)配下の潘璋(はんしょう)に退路を断たれ、息子の関平(かんぺい)ともども臨沮(りんしょ)で斬殺される。

221年4月、劉備が帝位に即くと、張飛は車騎将軍(しゃきしょうぐん)に昇進して司隷校尉(しれいこうい)を兼ね、西郷侯(せいきょうこう)に爵位が進む。

ところが同年7月、劉備の孫権討伐に加わるべく閬中(ろうちゅう)を発とうとした矢先、配下の張達(ちょうたつ)と范彊(はんきょう)に殺害された。

張飛は桓侯と諡(おくりな)され、(すでに長男の張苞は亡くなっていたため、)息子(次男)の張紹が跡を継いだ。

張飛をはじめ、関羽・馬超(ばちょう)・龐統(ほうとう)・黄忠(こうちゅう)に諡号(しごう)が贈られたのは、ずっと後の、蜀の景耀(けいよう)3(260)年のこと。

管理人「かぶらがわ」より

劉備・関羽・張飛は『三国志』における主役級の人物ですけど、正史『三国志』では3人とも、出自や若いころの事績がはっきりしません。

『三国志演義』や吉川『三国志』では、彼らが明確な目的をもって黄巾賊討伐に加わったように描かれていましたが、おそらく「ひと暴れしてやろう的な小集団」だったのでしょう。

ただしその武勇は本物で、魏の程昱(ていいく)らからも「関羽と張飛には1万人を相手にする能力がある」と称賛されたほど。

ですが、張飛は人との応接が関羽と正反対で、身分の高い者を敬う一方、身分の低い者を哀れむことがなかったという。

こうした態度をたびたび劉備から戒められていましたが、結局は部下の手で殺害されることになります。それまでの活躍を考えると残念な最期でした。

また張飛の妻について、『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・夏侯淵伝〈かこうえんでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く魚豢(ぎょかん)の『魏略(ぎりゃく)』には、以下のような話がありました。

「建安(けんあん)5(200)年、そのころ夏侯霸(かこうは)の従妹で13、4歳になる少女が本籍地の郡に住んでいたが、薪(たきぎ)を採りに出かけて張飛に捕まった。張飛は少女が良家の娘だと知ると、そのまま自分の妻にした。後に彼女は娘を生み、その娘が劉禅の皇后になった」

200年と言えば、曹操が官渡(かんと)の戦いで袁紹を破った年です。袁紹のもとにいた劉備が命を受け、許の近郊を荒らしていた劉辟(りゅうへき)を助勢しに行ったりもしています。

曹操のもとを離れた関羽も劉備と再会していますし、肝心の張飛の動きが詳しくわからないものの、『魏略』の話はありそうですよね。

夏侯氏の本籍というと沛国(はいこく)譙県(しょうけん)でしょうから、劉備に付き従っていた張飛が、夏侯霸の従妹をさらって妻にしたのか……。

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