王広(おうこう) ※あざなは公淵(こうえん)

【姓名】 王広(おうこう) 【あざな】 公淵(こうえん)

【原籍】 太原郡(たいげんぐん)祁県(きけん)

【生没】 ?~251年(?歳)

【吉川】 登場せず。
【演義】 登場せず。
【正史】 登場人物。

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父に連座しての最期

父は王淩(おうりょう)だが、母は不詳。王飛梟(おうひきょう)・王金虎(おうきんこ)・王明山(おうめいざん)は弟。

王広は学問を修め、高い志を持っていたという。

249年1月、太傅(たいふ)の司馬懿(しばい)が曹爽(そうそう)らを誅殺すると、王淩は令狐愚(れいこぐ)と共謀し、若年の曹芳(そうほう)に代えて楚王(そおう)の曹彪(そうひゅう)を立て、許昌(きょしょう)に都を置こうと考えた。

このとき曹芳は18歳、曹彪は55歳だった。なお曹彪は曹操(そうそう)の息子で、曹丕(そうひ)の異母弟。

令狐愚は王淩の外甥(がいせい。姉妹の子)。

同年9月、令狐愚は将軍の張式(ちょうしょく)を白馬(はくば。地名)に遣わし、曹彪に挨拶させて意を通ずる。

王淩も舎人の労精(ろうせい)を洛陽(らくよう)へ遣り、息子の王広に自分の計画を伝えた。

王広は司馬懿の政治をいくらか評価しており、彼らが表立って反心を見せていない現状も考え、父を思いとどまらせようとする。しかし王淩は聞き入れなかった。

同年11月、令狐愚は再び張式を曹彪のもとへ遣わしたが、その帰りを待たずに病死してしまう。

同年12月、王淩は太尉(たいい)に昇進し、節鉞(せつえつ。軍権を示す旗とまさかり)を授かる。

翌250年、熒惑(けいわく。火星)が南斗(星座の名)の領域に入り込むと、王淩は斗中に星がある状況を見て、急に高貴な身分になる者が出るはずだと考えた。

翌251年春、呉軍(ごぐん)が涂水(とすい)をせき止めると、王淩はこの機に行動を起こそうとする。諸軍に臨戦態勢を取らせたうえ、呉の討伐を求める上奏を行ったものの、曹芳の聴許は得られなかった。

そこで王淩は将軍の楊弘(ようこう)を遣り、(令狐愚の後任の)兗州刺史(えんしゅうしし)の黄華(こうか)に廃立のことを伝えさせる。

だが黄華と楊弘は、この件を連名で司馬懿に密告した。すぐさま司馬懿は中軍をひきい、水路から王淩の討伐へ向かう。

一方で王淩に対する赦免令を下し、尚書(しょうしょ)を務めていた王広を同伴した。

さらに王広に父あての手紙を書かせて説諭させつつ、突如、大軍をもって百尺(ひゃくせき。地名)に到達する。

王淩は追い詰められたことを悟り、ひとりで舟に乗って司馬懿を出迎えることにした。

また、掾(えん。属官)の王彧(おういく)を遣って謝罪し、自分の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)と節鉞を届けさせた。

ほどなく司馬懿が丘頭(きゅうとう)に着くと、王淩は後ろ手に縛った姿で船着き場へ赴く。

司馬懿は詔(みことのり)を受け、主簿(しゅぼ。官名)を遣って縛めを解かせ、官服に着替えさせてから王淩と会う。

王淩は印綬と節鉞を返してもらうが、600の歩騎をもって都へ護送されることになった。

その道中、項(こう)まで来たところで、王淩は毒薬を飲んで死ぬ。ほどなく王広も父に連座して処刑された。このとき40余歳だったという。

管理人「かぶらがわ」より

上で挙げた記事は『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・王淩伝)によるものです。

また、その裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く孫盛(そんせい)の『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』には、太傅の司馬懿が蔣済(しょうせい)と閑談した際、王淩の息子たちについて尋ねたという記事もありました。

蔣済は王淩の文武の才をたたえた後、(彼の息子の)王広らの志や能力は父よりも優れている、と話してしまいますが、退出するとこのことを悔やみ、親しい人にこう言ったそうです。

「私の言葉が人の一門を滅ぼすことになるか……」

蔣済の話が決定打になったのかはわかりませんが、王淩父子が司馬懿らからマークされる一因を作ったとは言えましょう。

もう王淩の気持ちは固まっていたのでしょうから、それを王広が止めるのは難しかったと思います。王広は司馬懿にうまく使われた感じもしますね。

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