-260年- 庚辰(こうしん)
【魏】 (甘露〈かんろ〉5年) → 景元(けいげん)元年 ※高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉) → 元帝(げんてい。曹奐〈そうかん〉)
【蜀】 景耀(けいよう)3年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 永安(えいあん)3年 ※景帝(けいてい。孫休〈そんきゅう〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
乙酉(いつゆう)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉)
★ここは干支(かんし)を補っておく。
【03月】
呉(ご)の孫休のもとに、「西陵(せいりょう)で赤い烏(カラス)が現れた」との報告が届く。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫休伝〈そんきゅうでん〉)
【04月】
魏(ぎ)の曹髦が詔(みことのり)を下し、先に沙汰やみとなっていた命令を実施させ、大将軍(だいしょうぐん)の司馬昭(しばしょう)を相国(しょうこく)に任じたうえ、晋公(しんこう)に封じ、九錫(きゅうせき)加えようとする。しかし、またも司馬昭は固辞する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【05月】「曹髦の崩御(ほうぎょ)」
己丑(きちゅう)の日(7日)
魏の曹髦が崩御する。このとき20歳だった。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
★ここで郭太后(かくたいこう)の令が記載されている。「曹髦は郭太后の暗殺を謀ったが、発覚すると挙兵して、郭太后や大将軍(司馬昭)を捕らえようとした」などというもの。「この際、曹髦は自ら抜刀し、側近など寄せ集めの衛士とともに戦陣に突入した。しかし司馬昭の先鋒隊に殺害された」ともある。
また、曹髦の埋葬は漢(かん)の昌邑王(しょうゆうおう。劉賀〈りゅうが〉)の例により、平民の礼式とすること。曹髦から挙兵の相談を受けた、侍中(じちゅう)の王沈(おうしん)、散騎常侍(さんきじょうじ)の王業(おうぎょう)、尚書(しょうしょ)の王経(おうけい)のうち、事前に司馬昭に報告した王沈と王業を評価する一方、「王経は悪逆非道である」とし、「その一族とともに逮捕して、廷尉(ていい)に引き渡すように」と命じている。
★『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…曹髦が、自ら出撃するに至った経緯について。
★『世語(せいご)』『晋諸公賛(しんしょこうさん)』『晋紀(しんき)』『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』『魏末伝(ぎまつでん)』…裴松之(はいしょうし)はこの事件に関して、「『漢晋春秋』の叙述はほぼ筋道が立っている」と評価し、ここに挙げた書物からも異同のある部分を引用している。
★また、『世語』には別に王業の記事があり、「王業は武陵県(ぶりょうけん)の人で、後年、晋(しん)の中護軍(ちゅうごぐん)になった」とある。
⇒05月
魏の曹髦が、王経らとともに司馬昭の誅殺に動く。しかし賈充(かじゅう)らの反撃に遭い、曹髦は殺害された。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【05月】
庚寅(こういん)の日(8日)
魏の太傅(たいふ)の司馬孚(しばふ)、大将軍の司馬昭、太尉(たいい)の高柔(こうじゅう)、司徒(しと)の鄭沖(ていちゅう)らが、郭太后に上言する。先に郭太后の令により、曹髦を平民の礼式で埋葬するとしたことについて、「曹髦に恩愛を加えられ、王の礼式によって埋葬されますように」と求めるもの。郭太后はこの意見に従った。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
★『漢晋春秋』…曹髦の埋葬の様子について。
★ここで裴松之は、『漢晋春秋』の「みすぼらしい車が数乗付き従い、柩(ひつぎ)に先行する旗もなかった」というくだりに触れ、「このありさまで、どうして王の礼式で埋葬したと言えようか」と疑問を呈したうえ、「これはたぶん、このことを快く思っていなかった者が過剰に表現したのであって、実際にはそれほどひどいものではなかったと思われる」と述べている。
【05月】
魏の使持節(しじせつ)・行中護軍(こうちゅうごぐん)・中塁将軍(ちゅうるいしょうぐん)の司馬炎(しばえん)が北方へ遣わされ、常道郷公の曹璜(そうこう。曹奐)を明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉)の後継者として迎える。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【05月】
辛卯(しんぼう)の日(9日)
魏の群公が郭太后に上奏する。郭太后の命令が、藩国と同様に令と称されていることについて触れ、「今後はすべてのご命令を詔制(しょうせい)と称され、先代の例と同じにされますように」というもの。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【05月】
癸卯(きぼう)の日(21日)
魏の大将軍の司馬昭が、改めて相国への就任と晋公の封爵、そして九錫を受けることを固辞する意思を示す。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【05月】
戊申(ぼしん)の日(26日)
魏の大将軍の司馬昭が郭太后に上言する。曹髦が殺害された際の経緯について触れ、「太子舎人(たいししゃじん)の成済(せいせい)が、命令に背いて曹髦を傷つけ、ついに生命を奪うに至ったものです」と述べたもの。その後、すぐに成済を捕らえ、軍法を執行したともある。
これに対して郭太后は詔を下し、「親不孝の罪を犯した曹髦こそ問題であり、成済が大逆罪を犯したとは思わない」としたものの、結局は司馬昭の上奏を容れ、成済とその一族の処刑を許可した。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
★『魏氏春秋』…成済兄弟の処刑時の抵抗について。
★『世語』…石苞(せきほう)について。
【06月】
癸丑(きちゅう)の日(1日)
魏の郭太后が詔を下す。常道郷公(曹璜)の諱(いみな)とあざなについて触れ、「たいへん避けにくい(古代では、君主の名と同じ文字をうっかり使用すると不敬罪に問われた)ものであるから、朝臣は広く改名のことを議論し、その結果を上奏せよ」というもの。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【06月】「曹奐の即位と魏の改元」
甲寅(こういん)の日(2日)
魏の曹奐が洛陽(らくよう)に入城し、郭太后に目通りする。曹奐はその日のうちに、太極前殿(たいごくぜんでん)で帝位に即いた。
曹奐は大赦を行い、「甘露」を「景元」と改元したうえ、格差をつけて、民に爵号および穀物や絹織物を下賜した。
『三国志』(魏書・陳留王紀〈ちんりゅうおうぎ〉)
★毎度のことだが、「民に爵号を下賜した」という意味がわからなかった。穀物や絹織物ならわかるが……。当時の制度はどのようなものだったのだろうか?
★『後漢書(ごかんじょ)』や『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注を読み、「民に爵号を下賜した」という意味がわかった。
漢では、国家に慶事もしくは凶事が起こったとき、民の男子(長男限定など、場合によって対象者は異なる)に爵位を賜与する制度があったという。当然、魏にも同じような制度があったということだった。このあたりのことについては、215年1月の記事を参照。
【06月】
丙辰(へいしん)の日(4日)
魏の曹奐が、大将軍の司馬昭を相国に昇進させたうえ、晋公に封じ、領邑(りょうゆう)2郡を加増して合わせて10郡とし、九錫を加えることについて、「先の詔の通りにせよ」として、司馬昭の兄弟や従兄弟の息子たちのうち、まだ侯に取り立てられていない者をみな亭侯(ていこう)に封じ、銭1千万と絹1万匹を下賜しようとする。しかし、またも司馬昭が固辞したので沙汰やみになった。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【06月】「曹節(そうせつ)の死」
己未(きび)の日(7日)
漢の献帝(けんてい)の皇后だった曹節が死去する。
曹奐は、華林園(かりんえん)に行幸する一方、使持節を遣わし、曹節に献穆皇后(けんぼくこうごう)の諡(おくりな)を追贈した。また「葬儀の際の車・衣服・服喪の決まりについては、すべて漢王朝の慣例通りに執り行うように」と命じた。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
⇒?月
山陽公(漢の献帝)の夫人であった曹節が死去する。曹節は(献帝の)禅陵(ぜんりょう)に合葬されたが、その際の車服や儀礼は、みな漢の制度に従った。
『後漢書』(曹皇后紀〈そうこうごうぎ〉)
【06月】
癸亥(きがい)の日(11日)
魏の曹奐が、尚書右僕射(しょうしょゆうぼくや)の王観(おうかん)を司空(しくう)に任ずる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【09月】
蜀(しょく)の劉禅が、亡き将軍の関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)・馬超(ばちょう)・龐統(ほうとう)・黄忠(こうちゅう)に、それぞれ諡号(しごう)を追贈する。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)
【秋】
呉の孫休が、都尉(とい)の厳密(げんみつ)の建議を容れ、丹楊郡(たんようぐん)の宛陵(えんりょう)に浦里塘(ほりとう。灌漑用〈かんがいよう〉のダム)を築く。
『三国志』(呉書・孫休伝)
★『三国志』(呉書・濮陽興伝〈ぼくようこうでん〉)…浦里塘の工事の様子について。
【10月】
魏の司空の王観が死去する。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【11月】
魏の曹奐の父である曹宇(そうう)が、曹奐に冬至を慶賀する上表を行う。この際、曹宇は臣と称した。
曹奐は詔を下し、実父の呼び名などの扱いについて、「礼典により処置するように」と命じたうえで、担当官庁に意見を求めた。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【12月】
甲申(こうしん)の日(6日)
魏の華陰県(かいんけん)の井戸の中に黄龍が現れる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【12月】
甲午(こうご)の日(16日)
魏の曹奐が、司隷校尉(しれいこうい)の王祥(おうしょう)を司空に任ずる。
『三国志』(魏書・陳留王紀)
【?月】「孫亮(そんりょう)の死」
この年、呉の会稽郡(かいけいぐん)で、「会稽王の孫亮が都(建業〈けんぎょう〉)に還り、天子(てんし)になるだろう」との流言が広まった。
これに加えて孫亮に仕える宮人が、「孫亮さまは、巫(みこ)に祈とうを行わせ、呪いの言葉を発しておられます」と告発した。
このことが担当官吏から孫休に上聞されたため、孫亮は候官侯(こうかんこう)に位を貶(おと)され、任地に向かうよう命ぜられた。ところが、その道中で孫亮は自殺し、護送にあたった役人が処刑された。
『三国志』(呉書・孫休伝)
★『呉録(ごろく)』…「孫休が、鴆毒(ちんどく)を用いて孫亮を殺害したのだ」と言う者もある。晋の太康(たいこう)年間(280~289年)になって、呉のもとの少府(しょうふ)である丹楊の戴顒(たいぎょう)が、孫亮の遺骸を迎え取り、尋陽(じんよう)の頼郷(らいきょう)に葬った。
【?月】
この年、呉の孫休が、会稽南部を建安郡(けんあんぐん)とし、宜都郡(ぎとぐん)を分割して建平郡(けんぺいぐん)を設置した。
『三国志』(呉書・孫休伝)
【?月】
この年、呉の建徳県(けんとくけん)で大きな鼎(かなえ)が発見された。
『三国志』(呉書・孫休伝)の裴松之注に引く『呉歴(ごれき)』
特記事項
「この年(260年)に亡くなったとされる人物」
王観(おうかん)・王経(おうけい)・曹髦(そうぼう)・孫亮(そんりょう)・陳泰(ちんたい)・満長武(まんちょうぶ)?
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