159年(漢の延熹2年)の主な出来事

-159年- 己亥(きがい)
【漢】 延熹(えんき)2年 ※桓帝(劉志〈りゅうし〉)

スポンサーリンク
スポンサーリンク

月別および季節別の主な出来事

【02月】
鮮卑が雁門郡に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)

【02月】
己亥の日(29日)
阜陵王の劉便(りゅうべん)が薨去(こうきょ)する。
『後漢書』(桓帝紀)

【02月】
蜀郡夷が蚕陵県に侵攻し、県令を殺害する。
『後漢書』(桓帝紀)

【03月】
桓帝が、再び刺史や太守が3年の喪に服すことを禁ずる。
『後漢書』(桓帝紀)

【夏】
洛陽で大雨が降る。
『後漢書』(桓帝紀)

【06月】
鮮卑が遼東に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)

【07月】
桓帝が顕陽苑を造営し、苑丞の官を設置する。
『後漢書』(桓帝紀)

【07月】「梁皇后の崩御」
丙午(へいご)の日(8日)
梁皇后が崩御する。
『後漢書』(桓帝紀)

【07月】
乙丑(いっちゅう)の日(27日)
桓帝が、懿献梁皇后(いけんりょうこうごう)を懿陵に葬る。
『後漢書』(桓帝紀)

【07月】
大将軍の梁冀(りょうき)が反乱を謀る。
『後漢書』(桓帝紀)

【08月】「梁冀の死」
丁丑(ていちゅう)の日(10日)
桓帝が前殿に出御。司隷校尉の張彪(ちょうひゅう)に詔を下し、兵をひきいて梁冀の屋敷を包囲するよう命ずる。

大将軍の印綬(官印と組み紐〈ひも〉)を取り上げられた梁冀は、妻とともに自殺。衛尉の梁淑(りょうしゅく)、河南尹の梁胤(りょういん)、屯騎校尉の梁譲(りょうじょう)、越騎校尉の梁忠(りょうちゅう)、長水校尉の梁戟(りょうげき)ら内外の宗族数十人も、みな誅殺された。

さらに太尉の胡広(ここう)が連座して罷免され、司徒の韓縯(かんえん)と司空の孫朗(そんろう)も投獄された。
『後漢書』(桓帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「(韓縯と孫朗については)『東観漢記』に『ともに宮殿を守らず、長寿亭に留まっていた罪にあたったが、死一等を減刑して爵位で購わせた』とある」という。ここの注釈では、胡広も同じ扱いをされたのかよくわからなかった。

【08月】
壬午(じんご)の日(15日)
桓帝が、鄧氏を皇后に立てる。そして先に梁皇后を葬った懿陵を格下げし、貴人の冢(ちょう。塚)とした。
『後漢書』(桓帝紀)

【08月】
桓帝が詔を下し、誅殺された梁冀らを断罪する。

一方で、中常侍の単超(ぜんちょう)・徐璜(じょこう)・具瑗(ぐえん)・左悺(さわん)・唐衡(とうこう)および尚書令の尹勲(いんくん)の名を挙げ、単超ら5人を県侯に、尹勲ほか7人を亭侯に、それぞれ封じた。これ以降、桓帝と昔から親しかった者たちが多数封爵を受けることになった。
『後漢書』(桓帝紀)

【08月】
桓帝が、大司農の黄瓊(こうけい)を太尉に、光禄大夫の祝恬(しゅくてん)を司徒に、大鴻臚(だいこうろ)の盛允(せいいん)を司空に、それぞれ任ずる。
『後漢書』(桓帝紀)

【08月】
桓帝が、初めて秘書監の官を設置する。
『後漢書』(桓帝紀)

【10月】
壬申(じんしん)の日(5日)
桓帝が長安に行幸する。

乙酉(いつゆう)の日(18日)
桓帝が未央宮(びおうきゅう)に到着する。

甲午(こうご)の日(27日)
桓帝が高廟(高祖の廟)を祭った。

11月、庚子(こうし)の日(4日)
桓帝が十一陵を祭った。
『後漢書』(桓帝紀)

【11月】
壬寅(じんいん)の日(6日)
桓帝が、中常侍の単超を車騎将軍に任ずる。
『後漢書』(桓帝紀)

【12月】
己巳(きし)の日(3日)
桓帝が長安に行幸し、長安の民ひとりにつき粟10斛を、園陵を守護している一族には同じく5斛を、さらに行幸の際に通過した県の県民には同じく3斛を、それぞれ賜与した。
『後漢書』(桓帝紀)

【12月】
焼当羌など8種の羌族が反乱を起こし、隴右(ろうゆう)に侵攻する。護羌校尉の段熲(だんけい)が羅亭まで追撃し、これを討ち破った。
『後漢書』(桓帝紀)

⇒12月
羌族が隴西(ろうせい)の金城塞に攻め寄せる。段熲がこれを討ち破る。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【12月】
天竺国の使者が漢に来朝し、貢ぎ物を献ずる。
『後漢書』(桓帝紀)

特記事項

この年は特になし。

コメント ※下部にある「コメントを書き込む」ボタンをクリック(タップ)していただくと入力フォームが開きます

タイトルとURLをコピーしました