253年(魏の嘉平5年・蜀の延熙16年・呉の建興2年)の主な出来事

-253年- 癸酉(きゆう)
【魏】 嘉平(かへい)5年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)16年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 建興(けんこう)2年 ※会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
丙寅(へいいん)の日(1日)
呉(ご)の孫亮が、全氏(ぜんし)を皇后に立てたうえ、大赦を行う。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫亮伝〈そんりょうでん〉)

【01月】
庚午(こうご)の日(5日)
呉に侵攻していた魏の王昶(おうちょう)らが、みな軍を引き揚げる。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【01月】「費禕(ひい)の死」
蜀(しょく)の大将軍(だいしょうぐん)の費禕が、漢寿(かんじゅ)で魏(ぎ)の降人(こうじん)の郭循(かくじゅん。郭脩〈かくしゅう〉)に殺害される。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【02月】
呉軍が東興(とうこう)から凱旋(がいせん)する。孫亮は、封爵や恩賞の沙汰を盛大に行う。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

『三国志』(呉書・諸葛恪伝〈しょかつかくでん〉)によると、「呉軍は車や牛馬、驢馬(ロバ)や騾馬(ラバ)など、それぞれ数千頭を手に入れ、奪った軍糧や兵器などを山積みにし、軍を整えて凱旋した。この功により、諸葛恪は陽都侯(ようとこう)に爵位が進み、荊州(けいしゅう)および揚州(ようしゅう)の牧(ぼく)を加官された。さらに国内の軍事全般の指揮を任せられるとともに、黄金100斤と馬200頭、繪(きぬ)と布(あさぬの)それぞれ1万匹を下賜された」とある。

⇒02月
呉軍が東興から凱旋し、諸葛恪は、荊揚州牧・督中外諸軍事(とくちゅうがいしょぐんじ)を加官される。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【03月】
呉の諸葛恪が、軍をひきいて魏の討伐に向かう。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

『三国志』(呉書・諸葛恪伝)によると、「東興で魏に勝利した結果、諸葛恪には敵を軽んずる心が生じた。(252年)12月に戦勝した翌年(253年)春、諸葛恪は再び軍を動かしたいと願い出た。呉の主だった朝臣たちは、『たびたびの出兵で兵士たちは疲弊している』と諫めたが、諸葛恪は聞かなかった。中散大夫(ちゅうさんたいふ)の蔣延(しょうえん)が、頑強に反対意見を申し述べたところ、朝会の場から連れ出されてしまった」とある。

さらに「そこで諸葛恪は論を著して、皆を納得させようとした。その論を見た人々は、諸葛恪は何が何でも魏の討伐を実行に移す気だと考え、それ以上は誰も反対意見を述べようとしなかった」と続き、「このようにして、諸葛恪は人々の反対を押し切って軍を動かし、州郡に大動員をかけて20万の軍勢を繰り出した。呉では出兵を巡る騒動が起こり、こうしたことから彼は人心を失っていった」とある。

【04月】
蜀の衛将軍(えいしょうぐん)の姜維(きょうい)が、再び軍勢をひきいて魏の南安(なんあん)を包囲したものの、勝つことができずに帰還する。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【04月】
魏の曹芳が大赦を行う。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)

【04月】
呉の諸葛恪が、魏の合肥新城(ごうひしんじょう)を包囲する。しかし疫病が大流行したため、呉の兵士の大半が死ぬ。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

⇒05月
呉の太傅(たいふ)の諸葛恪が、魏の合肥新城を包囲する。曹芳は、太尉(たいい)の司馬孚(しばふ)に詔(みことのり)を下し、これを防がせた。
『三国志』(魏書・斉王紀)

『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…このとき蜀の姜維も出撃し、魏の狄道(てきどう)を包囲したが、この際の司馬師(しばし)と虞松(ぐしょう)のやり取り。

【07月】
呉の太傅の諸葛恪が、魏の合肥新城から撤退する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

裴松之注(はいしょうしちゅう)によると「このとき魏の張特(ちょうとく)が合肥新城を守っていた」という。

『魏略(ぎりゃく)』…張特の経歴と合肥新城における機転。このときの功による栄転の話。

⇒08月
呉の諸葛恪が軍をまとめ、魏の合肥新城から撤退する。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【08月】
魏の曹芳が詔を下す。亡き中郎(ちゅうろう)の郭脩(郭循)に長楽郷侯(ちょうらくきょうこう)を追封し、領邑(りょうゆう)1千戸を与えたうえ、威侯(いこう)と諡(おくりな)するもの。

また、その息子に爵位を継がせて奉車都尉(ほうしゃとい)に任じたうえ、銀1千鉼(へい)と絹1千匹を下賜した。
『三国志』(魏書・斉王紀)

郭脩(郭循)の爵位を継いだ息子については、名が記されていなかった。

『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』…郭脩(郭循)が、費禕刺殺に至るまでの話。

裴松之の考え…郭脩(郭循)の行為を「まったくの無茶」だとし、聶政(じょうせい)や傅介子(ふかいし)、趙襄子(ちょうじょうし)や燕(えん)の太子の丹(たん)とは比べられないというもの。

【10月】
呉の孫亮が、大饗(たいきょう)の礼(先王の祭祀)を執り行う。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【10月】「諸葛恪の死」
呉の武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の孫峻(そんしゅん)が、宮中に潜ませておいた兵士を使い、諸葛恪を殺害する。

その後、孫亮は大赦を行い、孫峻を丞相(じょうしょう)に任じたうえ、富春侯(ふしゅんこう)に封じた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

『三国志』(呉書・諸葛恪伝)および『呉歴(ごれき)』『異同評(いどうひょう)』『呉録(ごろく)』…諸葛恪が殺害されるに至った経緯について。

『捜神記(そうじんき)』…諸葛恪の殺害後、その屋敷で起こった婢女(めしつかい)の異変について。

⇒10月
呉の孫亮が、孫峻を丞相・大将軍・督中外諸軍事に任ずる。
『正史 三国志8』の年表

【11月】「呉の改元(予定)」
呉の春申(しゅんしん)に、5羽の大きな鳥が現れる。このため孫亮は、翌年から「建興」を「五鳳(ごほう)」と改元することを決めた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)

【?月】
魏の曹芳が即位(景初〈けいしょ〉3〈239〉年)してからこの年に至るまで、郡国県道には、新設されたり廃止されたりしたものが多く、ごくわずかのうちにもとに戻されたものもあり、いちいち記録することは不可能である。
『三国志』(魏書・斉王紀)

『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると、「『道』は魏の行政単位のひとつで、県内に異民族の居住地が含まれる場合の呼称」だという。

【?月】
この年、呉で諸葛恪が誅殺されると、孫峻は先の諸葛恪(姪の張氏〈ちょうし〉が孫和〈そんか〉の王妃だった)の発言を問題視し、南陽王(なんようおう)の孫和が謀反を企てたと言いがかりをつけた。

孫峻は、孫和から印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)を取り上げたうえ、新都郡(しんとぐん)へ強制移住させた。そしてさらに使者を遣り、孫和を自殺させた。
『三国志』(呉書・孫和伝)

【?月】
この年、山簡(さんかん)が生まれた(~312年)。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(253年)に亡くなったとされる人物」
諸葛恪(しょかつかく)諸葛融(しょかつゆう)孫和(そんか)張氏(ちょうし)D ※孫和(そんか)の妻鄭像(ていしょう)費禕(ひい)劉整(りゅうせい)

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