238年(魏の景初2年・蜀の延熙元年・〈呉の嘉禾7年〉→赤烏元年)の主な出来事

-238年- 戊午(ぼご)
【魏】 景初(けいしょ)2年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉)
【蜀】 延熙(えんき)元年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 (嘉禾〈かか〉7年) → 赤烏(せきう)元年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
魏(ぎ)の曹叡が詔(みことのり)を下し、太尉(たいい)の司馬懿(しばい)に軍を統率させ、遼東(りょうとう)への攻撃を命ずる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)

『晋紀(しんき)』…このときの明帝(曹叡)と司馬懿のやり取り。

『魏名臣奏(ぎめいしんそう)』…散騎常侍(さんきじょうじ)の何曾(かそう)の上奏文。

『志記(しき)』…このとき毌丘倹(かんきゅうけん)が司馬懿の副将に選ばれた。

⇒01月
魏の曹叡が、司馬懿を遼東の討伐に向かわせる。公孫淵(こうそんえん)は呉(ご)に救援を求めた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【02月】
癸卯(きぼう)の日(11日)
魏の曹叡が、太中大夫(たいちゅうたいふ)の韓曁(かんき)を司徒(しと)に任ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【02月】
癸丑(きちゅう)の日(21日)
月が心宿(しんしゅく。さそり座の中央部)の距星(きょせい。アル・ニヤト)を犯したうえ、心宿の中央の大星(大火〈たいか〉。さそり座のアンタレス)も犯す。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【01月】「蜀(しょく)の改元」
蜀の劉禅が、張氏(ちょうし。先后の妹で、同じく張飛〈ちょうひ〉の娘)を皇后に立てる。この際に大赦を行い、「建興」を「延熙」と改元した。

さらに、息子の劉璿(りゅうせん)を皇太子に立て、同じく息子の劉瑶(りゅうよう)を安定王(あんていおう)に封じた。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

この年も前年に引き続き、魏の暦が、蜀や呉の暦より1か月繰り上がっている点に注意が必要。以下に出てくる蜀や呉の記事についても、載せる位置が難しい。

【春】
呉の孫権が、1枚で1千銭の価値を持つ大銭(だいせん)を鋳造する。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【04月】
庚子(こうし)の日(9日)
魏の司徒の韓曁が死去する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【04月】
壬寅(じんいん)の日(11日)
魏の曹叡が、沛国(はいこく)から蕭県(しょうけん)・相県(しょうけん)・竹邑(ちくゆう)・符離(ふり)・蘄県(きけん)・銍県(ちつけん)・龍亢(りょうこう)・山桑(さんそう)・洨県(こうけん)・虹県(こうけん)の10県を分割し、汝陰郡(じょいんぐん)を設置する。

また、宋県(そうけん)と陳郡(ちんぐん)の苦県(こけん)を譙郡(しょうぐん)に併せる。さらに、沛県・杼秋(ちょしゅう)・公丘(こうきゅう)の3県と、彭城郡(ほうじょうぐん)の豊国(ほうこく)・広戚(こうせき)の両県を併せて沛国とした。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【04月】
庚戌(こうじゅつ)の日(19日)
魏の曹叡が大赦を行う。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【05月】
乙亥(いつがい)の日(15日)
月が再び心宿の距星を犯し、心宿の中央の大星も犯す。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『魏書』…戊子(ぼし)の日(5月28日)に出された魏の曹叡の詔。「漢(かん)の高祖(こうそ。劉邦〈りゅうほう〉)や光武帝(こうぶてい。劉秀〈りゅうしゅう〉)の御陵(みささぎ)が崩壊し、「子どもや牧童が、その上で飛んだり跳ねたりしているのは、魏王朝が先代の王朝を尊びあがめんとする意に反している」として、「御陵の100歩四方に標識を立て、民の農耕・牧畜・伐採を許さない」というもの。

【06月】
魏の太尉の司馬懿の軍勢が遼東に到着する。
『三国志』(魏書・公孫度伝〈こうそんたくでん〉)に付された「公孫淵伝」

⇒06月
魏の司馬懿が遼東に至り、襄平(じょうへい)で公孫淵を包囲する。
『正史 三国志8』の年表

【06月】
魏の曹叡が、漁陽郡(ぎょようぐん)から狐奴県(こどけん)を廃止し、再び安楽県(あんらくけん)を設置する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【夏】
呉の呂岱(りょたい)が、廬陵(ろりょう)の反徒を討伐し終え、軍を還して陸口(りくこう)に戻る。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【08月】
焼当(しょうとう)の羌王(きょうおう)の芒中(ぼうちゅう)や注詣(ちゅうけい)らが魏に背く。涼州刺史(りょうしゅうしし)が、諸郡の兵をひきいて討伐にあたり、注詣を斬った。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【08月】
癸丑の日(24日)
彗星(すいせい)が張宿(ちょうしゅく。うみへび座の中央部)に現れる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…史官の上奏を受けた魏の曹叡が、大々的にお祓(はら)いの儀式を行い、邪気を抑えたという話。

【09月】「公孫淵の死」
丙寅(へいいん)の日(7日)
魏の太尉の司馬懿が、襄平で公孫淵を討ち破り、その首を洛陽(らくよう)に送る。これにより海東(かいとう。遼東)の諸郡が平定された。
『三国志』(魏書・明帝紀)

⇒08月
丙寅の日(7日?)
夜、長さ数十丈もある大流星が、首山(しゅざん)の東北から襄平城の東南の方向へ落ちる。
『三国志』(魏書・公孫度伝)に付された「公孫淵伝」

⇒08月
壬午(じんご)の日(23日?)
公孫淵の軍勢が総崩れとなる。公孫淵は息子の公孫脩(こうそんしゅう)とともに、数百の騎兵をひきいて魏軍の包囲を突破し、東南へ逃亡した。

魏の大軍はこれを急襲し、ちょうど丙寅の日(8月7日?)の夜に流星が落ちた地点で、公孫淵父子を斬り殺した。公孫淵の首は洛陽に送られ、遼東・帯方(たいほう)・楽浪(らくろう)・玄菟(げんと)の4郡は、ことごとく魏に平定された。
『三国志』(魏書・公孫度伝)に付された「公孫淵伝」

⇒08月
魏の司馬懿が襄平を陥し、梁水(りょうすい)のほとりで公孫淵父子を斬る。これにより遼東・帯方・楽浪・玄菟の4郡は、みな魏に帰属した。
『正史 三国志8』の年表

『三国志』(魏書・公孫度伝)に付された「公孫淵伝」のふたつの記事は、魏の暦と合っていないと思う。ただ、これを1か月繰り上げて解釈し直すと、今度は『三国志』(魏書・明帝紀)のいう丙寅の日の解釈が難しくなる。ここは謎が残った。

【08月】「呉の改元」
呉の孫権のもとに、「武昌(ぶしょう)で麒麟(きりん)が現れた」との報告が届く。先に孫権が、宮殿の前庭で赤い烏(カラス)を見ていたこともあり、「嘉禾」を「赤烏」と改元した。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【09月】
蜀(しょく)の陰平太守(いんぺいたいしゅ)の廖惇(りょうとん)が謀反を起こし、魏の守善羌侯(しゅぜんきょうこう)の宕蕈(とうしん)の陣を攻める。

魏の雍州刺史(ようしゅうしし)の郭淮(かくわい)が、広魏太守(こうぎたいしゅ)の王贇(おういん)と南安太守(なんあんたいしゅ)の游奕(ゆうえき)を遣わし、廖惇の討伐にあたらせた。

郭淮の上奏を受けた曹叡は、魏軍がふた手に分かれて敵を包囲していることを知り、配置を変えるよう詔を下したものの、その詔が届く前に游奕は廖惇に敗れ、王贇も流れ矢に当たって戦死していた。
『三国志』(魏書・明帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏書』

ここにある「蜀の陰平太守の廖惇が謀反を起こし……」というくだり、イマイチよくわからなかった。訳書では、廖化(りょうか。廖惇・廖淳〈りょうじゅん〉)という感じで同一人物としてまとめられている。ちなみに廖惇は、この『魏書』だけの登場。

『三国志』(蜀書・宗預伝〈そうよでん〉)に付された「廖化伝」によると、「廖化はあざなを元倹(げんけん)、もとの名を淳といって……」とある。なので廖化(廖淳)は確かだが、廖惇まで同一人物と言えるのか、はっきりしなかった。

【11月】
魏の曹叡が、公孫淵討伐の勲功の大小に応じ、太尉の司馬懿以下に領邑(りょうゆう)の加増や封爵を行う。
『三国志』(魏書・明帝紀)

このくだりでは、公孫淵討伐に送り込む兵力や、司馬懿が遼東に到着した後、長雨に遭っていたときの曹叡と臣下たちとのやり取りが出てくる。

【11月】
壬午の日(24日)
魏の曹叡が、司空(しくう)の衛臻(えいしん)を司徒に、司隷校尉(しれいこうい)の崔林(さいりん)を司空に、それぞれ任ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【閏10月】
戊子(ぼし)の日(1日)
呉の孫権の夫人である歩氏(ほし)が死去する。孫権は、歩氏に皇后の位を追贈した。
『三国志』(呉書・呉主伝)

『三国志』(呉書・孫権歩夫人伝)の記事から日付を補っておく。

【閏11月】
月が心宿の中央の大星を犯す。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【12月】
乙丑(いっちゅう)の日(8日)
魏の曹叡が病の床に就く。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【12月】
辛巳(しんし)の日(24日)
魏の曹叡が、郭氏(かくし)を皇后に立てる。この際、天下の男子に爵位を2等級ずつ授け、鰥夫(やもめ。妻と死別した男性)、寡婦(やもめ。夫と死別した女性)、孤児、子のいない老人に穀物を下賜した。
『三国志』(魏書・明帝紀)

相変わらず、「天下の男子に爵位を2等級ずつ授け……」という意味がイマイチわからない。ただここの訳なら、臣下に恩を施す意味で封爵を行ったということか。これまで「天下の男子に」という表現が引っかかっていたが、単に特別昇進という解釈でよかったのかも?

『後漢書(ごかんじょ)』や『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注を読み、「民に爵号を下賜した」という意味がわかった。

漢では、国家に慶事もしくは凶事が起こったとき、民の男子(長男限定など、場合によって対象者は異なる)に爵位を賜与する制度があったという。当然、魏にも同じような制度があったということだった。このあたりのことについては、215年1月の記事を参照。

【12月】
辛巳の日
魏の曹叡が、燕王(えんおう)の曹宇(そうう)を大将軍(だいしょうぐん)に任ずる。

甲申(こうしん)の日(27日)
魏の曹叡が、大将軍の曹宇を罷免し、武衛将軍(ぶえいしょうぐん)の曹爽(そうそう)を大将軍に任ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『漢晋春秋』…明帝(曹叡)に重用されていた、中書監(ちゅうしょかん)の劉放(りゅうほう)と中書令(ちゅうしょれい)の孫資(そんし)が謀り、大将軍の曹宇を罷免に追い込んだ話。

【12月】
その昔(魏の青龍〈せいりょう〉3〈235〉年)、寿春(じゅしゅん)の農民の妻が、「私は天の神から登女(仙女)となるよう命ぜられた者だ」と言いだした。

彼女が病人に水を飲ませたり、けが人の傷口を洗ってやったりすると、病気やけがが治癒する者が多数あった。そこで曹叡は、彼女のために奥御殿に屋敷を建てて厚遇した。

しかし、曹叡が病床に伏すに及び、彼女の水を飲んでも効き目がなかったため、このとき彼女は殺害された。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【11月】
蜀の大将軍の蔣琬(しょうえん)が出撃し、漢中(かんちゅう)に駐屯する。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【?月】「倭国(わこく)の使者」
この年、倭の女王(卑弥呼〈ひみこ〉)が、大夫(たいふ)の難升米(なんしょうまい)らを魏の帯方郡に遣わし、天子(てんし)に朝見して献上品を捧げたいと願い出る。帯方太守の劉夏(りゅうか)は部下に命じ、倭国の使者を洛陽まで送っていかせた。
『三国志』(魏書・東夷伝〈とういでん〉)

【12月】「親魏倭王(しんぎわおう)」
魏が、倭の女王の卑弥呼に詔(みことのり)を下して親魏倭王に封じ、金印と紫綬(しじゅ)を授ける。

大夫の難升米は率善中郎将(ちゅうろうしょう)に、都市(とし。官名)の牛利(ぎゅうり)は率善校尉(そつぜんこうい)に、それぞれ任ぜられ、多数の下賜品を受け取って帰途に就いた。
『三国志』(魏書・東夷伝)

『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表でも同じ内容で取り上げられていたが、「あるいは239年?」としてあった。

『三国志事典』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉著 大修館書店)には以下のようにある。「倭人伝に使者派遣の年代が、公孫氏滅亡の直前である景初2年6月と記述されることは、伝写の誤りであり、『日本書紀(にほんしょき)』の注に引用されるように、景初3年6月が正しい」

【?月】
この年、呉の孫権が信任していた校事(こうじ)の呂壱(りょいつ)が、悪事の発覚によって誅殺される。

孫権は、過ちを認めて自らを責め、中書郎(ちゅうしょろう)の袁礼(えんれい)を遣わし、各軍の指揮官に陳謝の言葉を伝えさせるとともに、現在の施策に改めるべき点がないかを尋ねさせた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

『江表伝(こうひょうでん)』…真っ白な狐(キツネ)はいないが、真っ白な狐の裘(かわごろも)は存在するという例えを用いた孫権の言葉。

特記事項

「この年(238年)に亡くなったとされる人物」
韓曁(かんき)公孫淵(こうそんえん)曹炳(そうへい)歩氏(ほし)呂壱(りょいつ)?

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