184年(〈漢の光和7年〉→中平元年)の主な出来事

-184年- 甲子(こうし)
【漢】 (光和〈こうわ〉7年) → 中平(ちゅうへい)元年 ※霊帝(れいてい。劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【03月】「黄巾(こうきん)の乱の勃発」
甲子の日(?日)
張角(ちょうかく)配下の36方(教会区)の信徒らが、日を同じくして一斉に反乱を起こす。すぐに多くの地方が呼応して、郡県の役所を焼き、主だった役人を殺害した。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫堅伝〈そんけんでん〉)

⇒02月
鉅鹿郡(きょろくぐん)の張角が黄天(こうてん)と自称し、36方に分かれた各地の帥とともに、同日に反乱を起こす。彼らはみな黄色い頭巾を着けていた。安平(あんぺい)・甘陵(かんりょう)の両国の人々は、それぞれ王を捕らえて黄巾に呼応した。
『後漢書(ごかんじょ)』(霊帝紀〈れいていぎ〉)

李賢注(りけんちゅう)によると「ここでいう捕らえられた王とは、安平王(あんぺいおう)の劉続(りゅうしょく)と甘陵王(かんりょうおう)の劉忠(りゅうちゅう)である」という。

『三国志』には3月、『後漢書』には2月とある。当初は3月甲子の日の挙兵を予定していたが、内部から情報が漏れたため2月に早めたという。

【03月】
戊申(ぼしん)の日(3日)
霊帝が、河南尹(かなんいん)の何進(かしん)を大将軍(だいしょうぐん)に任じ、兵をひきいて洛陽(らくよう)の都亭(とてい)に駐屯させる。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
霊帝が、八関都尉(はっかんとい)の官を設置する。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると八関とは、函谷関(かんこくかん)・広城関(こうじょうかん)・伊闕関(いけつかん)・大谷関(たいこくかん)・轘轅関(かんえんかん)・旋門関(せんもんかん)・小平津関(しょうへいしんかん)・孟津関(もうしんかん)をいう。

【03月】「党錮(とうこ)の禁の解除」
壬子(じんし)の日(7日)
霊帝が党人(とうじん)を赦し、党人や関係者で辺境に流されていた者たちの帰還を認める。ただし張角だけは許さなかった。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「このとき中常侍(ちゅうじょうじ)の呂彊(りょきょう。呂強)が霊帝に言上。『党錮を捨て置いてすでに久しく、もし(党人が)黄巾と結んで謀議をともにすれば、これを悔やんでも救う手立てはございません』と述べた。霊帝は恐れを抱き、みな党人を許した」という。

【03月】
霊帝が、三公と九卿(きゅうけい)に詔(みことのり)を下し、馬と弩(ど)の供出を命ずるとともに、列将の子孫や吏民で戦陣の方略に詳しい者を推挙させ、公車をもって召し寄せる。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
霊帝が、北中郎将(ほくちゅうろうしょう)の盧植(ろしょく)に張角の討伐を命ずる。さらに左中郎将(さちゅうろうしょう)の皇甫嵩(こうほすう)と右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)の朱儁(しゅしゅん)には、潁川郡(えいせんぐん)の黄巾賊を討伐するよう命じた。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
庚子(こうし)の日(?日)
南陽郡(なんようぐん)の黄巾賊である張曼成(ちょうまんせい)が、南陽太守(なんようたいしゅ)の褚貢(ちょこう)を攻め、これを殺害する。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
霊帝が、太尉(たいい)の楊賜(ようし)を罷免し、太僕(たいぼく)の鄧盛(とうせい)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
霊帝が、司空(しくう)の張済(ちょうせい)を罷免し、大司農(だいしのう)の張温(ちょうおん)を司空に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

先の179年の記事でも触れたが、李賢注および『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「張済はあざなを元江(げんこう)といい、細陽県(さいようけん)の人」だという。ということで、後で登場する董卓(とうたく)配下の張済とは別人。

【04月】
朱儁が、黄巾賊の波才(はさい)に敗れる。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
侍中(じちゅう)の向栩(しょうく)と張鈞(ちょうきん)が、宦官(かんがん)を弾劾した罪により投獄されて獄死する。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「このとき張鈞は霊帝に上書し、『いま中常侍を斬り、その首を南郊に掛けて天下に詫びれば、すぐにも賊兵はおのずから消え去りましょう』と述べた。霊帝はこの上書を中常侍に見せた。このため張鈞は投獄されたのである」という。

【04月】
汝南郡(じょなんぐん)の黄巾賊が、邵陵(しょうりょう)で汝南太守の趙謙(ちょうけん)を討ち破る。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
広陽国(こうようこく)の黄巾賊が、幽州刺史(ゆうしゅうしし)の郭勲(かくくん)と太守の劉衛(りゅうえい)を殺害する。
『後漢書』(霊帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』の補注には、劉衛は広陽太守とあった。

しかし、国なら太守ではなく相(しょう。国相)とすべきだろうし、太守がいるなら広陽郡の黄巾賊とすべきなのでは? 広陽郡内の広陽(県侯国)ということも考えられるのか?

【05月】
皇甫嵩と朱儁が、長社県(ちょうしゃけん)で再び黄巾賊の波才らと戦い、これを大破する。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒05月
皇甫嵩が、長社で黄巾に包囲されたものの、朱儁や曹操(そうそう)の助力を得て討ち破る。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【06月】
南陽太守の秦頡(しんけつ)が、黄巾賊の張曼成を討ち破り、これを斬る。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】
交趾(こうし)の屯兵が、交趾刺史(こうししし)と合浦太守(ごうほたいしゅ)の来達(らいたつ)を捕らえ、柱天将軍(ちゅうてんしょうぐん)を自称する。霊帝は、新たな交趾刺史として賈琮(かそう)に討伐を命じ、これを平定した。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】
皇甫嵩と朱儁が、西華県(せいかけん)で汝南郡の黄巾賊を大破する。霊帝は詔を下し、引き続き皇甫嵩に東郡(とうぐん)の黄巾賊を、朱儁に南陽郡の黄巾賊を、それぞれ討伐するよう命ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】
盧植が黄巾賊を討ち破り、広宗県(こうそうけん)で張角を包囲する。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】
宦官が、盧植を誣告(ぶこく)して罪にあてる。霊帝は盧植に代え、中郎将の董卓を遣わして張角を攻めさせたものの、勝つことができなかった。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「盧植は何度も張角を討ち破り、もはや敵陣を攻略するばかりになっていた。ところが、小黄門(しょうこうもん)の左豊(さほう)は霊帝に、『盧植は土塁を堅く積み上げて軍を休め、賊に天誅が下ることをただ待っております』と報告した。霊帝は怒り、ついに檻車(かんしゃ)を差し向けて盧植を捕らえさせた。それでも盧植は死一等を減ぜられた」という。

【06月】
洛陽の女子が子を産んだところ、頭がふたつあり、その身体を共用していた。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「『続漢書(しょくかんじょ)』(五行志〈ごぎょうし〉)に、『(洛陽の)上西門外(じょうせいもんがい)の女子が子を産むと、頭がふたつあり、肩は別にあったが、胸は共用していた。不祥だと思い、地に落とすや捨て去ってしまった。こののち政治は、恩寵を受けた個人の家に壟断(ろうだん)されるようになり、上下の区別がなくなった。これこそつまり、人に二頭ある象(すがた)である』とある」という。

【07月】
巴郡(はぐん)の妖巫(ようふ)である張脩(ちょうしゅう)が謀反を起こし、郡県に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「劉艾(りゅうがい)の『霊帝紀』に、『このとき、巴郡の巫人である張脩は病を癒し、癒えた者には米5斗を納めさせた。(そのため)号して五斗米師(ごとべいし)と呼ばれた』とある」という。

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「張脩は『五斗米道』の指導者。張陵(ちょうりょう)の跡を受け、張魯(ちょうろ)へと受け継がれる漢中(かんちゅう)の宗教王国の基礎を築いた」という。

先の179年に獄死した、使匈奴中郎将(しきょうどちゅうろうしょう)の張脩とはもちろん別人。

⇒07月
五斗米師の張脩が巴郡で蜂起する。人々はその一味を「米賊(べいぞく)」と呼んだ。
『正史 三国志8』の年表

【07月】
河南尹の徐灌(じょかん)が投獄されて獄死する。
『後漢書』(霊帝紀)

【08月】
皇甫嵩が、倉亭(そうてい)で黄巾賊と戦い、その帥を捕らえる。

乙巳(いっし)の日(3日)
霊帝は皇甫嵩に詔を下し、北上して張角を討伐するよう命ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「このとき皇甫嵩が捕らえた帥とは、卜巳(ぼくし)のことである」という。

【09月】
安平王の劉続が罪により誅殺され、国が廃される。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
皇甫嵩が、広宗県で黄巾賊と戦い、張角の弟の張梁(ちょうりょう)を捕らえる。張角はすでに死んでいたため、その屍(しかばね)を斬った。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「張角の柩(ひつぎ)を暴いてその首を斬り落とし、さらし首にするため馬市(ばし)に伝送した」という。

【10月】
霊帝が、左中郎将の皇甫嵩を左車騎将軍(さしゃきしょうぐん)に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
皇甫嵩が、下曲陽県(かきょくようけん)でも黄巾賊を討ち破り、張角のもうひとりの弟である張宝(ちょうほう)を斬る。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
湟中(こうちゅう)の義従胡(ぎじゅうこ)の北宮伯玉(ほくきゅうはくぎょく)が、先零羌(せんれいきょう)とともに反乱を起こす。

彼らは金城(きんじょう)の辺章(へんしょう)と韓遂(かんすい)を軍師とし、護羌校尉(ごきょうこうい)の伶徴(れいちょう)や金城太守の陳懿(ちんい)を攻め、ふたりとも殺害した。
『後漢書』(霊帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「北宮伯玉は、いわゆる涼州(りょうしゅう)の賊の一勢力。湟中義従胡とは中国に内徙(ないし)し、漢の兵力を構成していた異民族のことである」という。

【11月】
癸巳(きし)の日(22日)
朱儁が宛城(えんじょう)を攻略し、黄巾賊の別帥である孫夏(そんか)を討ち取る。
『後漢書』(霊帝紀)

『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「(南陽郡〈なんようぐん〉の西鄂県〈せいがくけん〉には)精山(せいざん)があり、朱儁が孫夏を討ち破った場所である」という。

【11月】
霊帝が詔を下し、太官令(たいかんれい)に集まる諸国の珍味の類を減らし、御食を肉1種のみとしたうえ、厩馬のうち、祭祀に必要なもの以外はすべて軍に給付させる。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】「漢(かん)の改元」
己巳(きし)の日(29日)
霊帝が大赦を行い、「光和」を「中平」と改元する。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、下邳王(かひおう)の劉意(りゅうい)が薨去(こうきょ)した。劉意には息子がなかったため、国は廃された。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、郡国で奇妙な草が生えた。それらの草は、龍蛇鳥獣といった動物の肢体をかたどったかのようだった。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「『風俗通(ふうぞくつう)』に、『また、人の形をして兵弩を持ち、部位ごとに防具を備えたものもあった』とある」という。さらに「『続漢書』(五行志)に、『龍蛇鳥獣、その形は毛・羽・目・足・翅(し)がみな備わっていた。この年(184年)、黄巾賊が蜂起し、漢の威信はついに微弱となった』ともある」という。

【?月】
この年、劉備(りゅうび)・関羽(かんう)・張飛(ちょうひ)も黄巾討伐の兵を挙げた。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

特記事項

「この年(184年)に亡くなったとされる人物」
橋玄(きょうげん)張角(ちょうかく)

「この年(184年)に生まれたとされる人物」
郭氏(かくし)B ※曹丕(そうひ)の妻孫翊(そんよく)

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