247年(魏の正始8年・蜀の延熙10年・呉の赤烏10年)の主な出来事

-247年- 丁卯(ていぼう)
【魏】 正始(せいし)8年 ※少帝(しょうてい。曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)10年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 赤烏(せきう)10年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】「全琮(ぜんそう)の死」
呉(ご)の右大司馬(ゆうだいしば)の全琮が死去する。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

全琮の死について、『三国志』(呉書・全琮伝)では赤烏12(249)年に亡くなったとあった。この「呉主伝」の記事のほうが正しいように思えるが、確信は持てない。

『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表では、全琮の死をこの年(247年)1月としており、『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表では赤烏12(249)年としていた。上のような事情から、両者の見解も分かれているようだ。

【02月】
庚午(こうご)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・斉王紀〈せいおうぎ〉)

ここは干支(かんし)を補っておく。

【02月】
呉の孫権が南宮(なんきゅう。建業宮〈けんぎょうきゅう〉の南の秦淮河〈しんわいが〉近くにあった宮殿)に行幸する。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【03月】
呉の孫権が、都の建業で太初宮(たいしょきゅう)の改築を行い、諸将や州郡の長官たちも労働奉仕に加わる。
『三国志』(呉書・呉主伝)

『江表伝(こうひょうでん)』…孫権の詔(みことのり)。「このときの宮殿改築にあたっては、新たに木を伐採せず、武昌宮(ぶしょうきゅう)から材木や瓦を運ばせ、それを用いて修繕する形を取った」というもの。

【05月】
魏(ぎ)の曹芳が、河東郡(かとうぐん)から汾水(ふんすい)北部の10県を分割し、平陽郡(へいようぐん)を設置する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【05月】「歩騭(ほしつ)の死」
呉の丞相(じょうしょう)の歩騭が死去する。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【07月】
魏の尚書(しょうしょ)の何晏(かあん)が、曹芳に上奏する。為政者の暗愚と聖明について考察したもので、「今後、式乾殿(しょくけんでん。皇后の宮殿)に行幸なさるときや後園で遊ばれるときは、大臣を伴われますように。遊宴を催される機会のついでに文書をお調べになり、政治についてご相談され、経書(けいしょ)の意味を議論され、永遠の模範となられるべきです」というもの。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【10月】
呉の孫権が、死刑囚に対して恩赦を与える。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
蜀(しょく)の姜維(きょうい)が隴右(ろうゆう)に兵を進め、魏の郭淮(かくわい)や夏侯霸(かこうは)らと戦う。
『正史 三国志8』の年表

⇒?月
隴右の諸羌族(しょきょうぞく)が反乱を起こす。蜀の姜維が彼らと結び、魏の郭淮や夏侯霸と争う。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表

【?月】
このころ魏の曹爽(そうそう)が、何晏・鄧颺(とうよう)・丁謐(ていひつ)らと結んで政治をもっぱらにし、盛んに制度改革を行う。その一方で司馬懿(しばい)は病気と称し、政治に関わらなかった。
『正史 三国志8』の年表

【12月】
魏の散騎常侍(さんきじょうじ)・諫議大夫(かんぎたいふ)の孔乂(こうがい)が、曹芳に上奏する。天子(てんし)の宮殿に朱丹の塗料を施し、飾り立てることをやめるように勧めたうえ、「後園で馬を乗り回すのもおやめになり、外出される際には必ず、輦(れん。天子の乗る手車)か馬車にお乗りになるべきです」というもの。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【?月】
この年、魏の帯方太守(たいほうたいしゅ)の王頎(おうき)が着任する。

倭(わ)の女王の卑弥呼(ひみこ)は、狗奴国(くなこく)の男性の王である卑弥弓呼(ひみきゅうこ)と以前から不和だった。このとき卑弥呼は、配下の載斯(さいし)や烏越(うえつ)らを帯方郡に遣わし、両国間で戦闘が起きていることを報告させた。

これを受けて王頎は、配下の塞曹掾史(さいそうえんし)の張政(ちょうせい)らを倭に遣わし、先に曹芳が倭の大夫の難升米(なんしょうまい)に下した詔書と黄幢(こうどう。黄色の旗)も届けさせた。また、檄文(げきぶん)をもって難升米に告諭した。
『三国志』(魏書・東夷伝〈とういでん〉)

245年、魏の曹芳は難升米に詔を下し、併せて黄幢を下賜したが、これらが帯方郡に託されたまま、まだ本人に届いていなかったもの。

【?月】
この年、涼州(りょうしゅう)の蛮王(ばんおう)の白虎文(はくこぶん)と治無戴(ちぶたい)らが、配下の者をひきいて蜀に降伏する。

劉禅は、衛将軍(えいしょうぐん)の姜維を出迎えに遣り、彼らを慰撫(いぶ)させて繁県(はんけん)に住まわせた。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【?月】
この年、汶山郡(ぶんざんぐん)平康(へいこう)の蛮族が、蜀に対して反乱を起こす。姜維が討伐に赴き、これを平定した。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【?月】
この年、呉の孫権が諸葛壱(しょかついつ)に命じ、偽って呉に背く様子を見せて、魏の諸葛誕(しょかつたん)をおびき寄せようとした。しかし、途中で諸葛誕が感づいて引き返したため、失敗に終わった。
『三国志』(呉書・呉主伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『江表伝』

【?月】
この年、康僧会(こうそうかい)が、呉の建業にやってくる。孫権は、彼のために建初寺(けんしょじ)を建立した。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(247年)に亡くなったとされる人物」
向朗(しょうろう)全琮(ぜんそう)?歩騭(ほしつ)

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