249年(〈魏の正始10年〉→嘉平元年・蜀の延熙12年・呉の赤烏12年)の主な出来事

-249年- 己巳(きし)
【魏】 (正始〈せいし〉10年) → 嘉平(かへい)元年 ※少帝(曹芳〈そうほう〉)
【蜀】 延熙(えんき)12年 ※後主(劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 赤烏(せきう)12年 ※大帝(孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
甲午(こうご)の日(6日)
魏の曹芳が高平陵(曹叡〈そうえい〉の陵)に参詣する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

『魏世譜』…高平陵について、「洛水の南方の大石山にあって、洛陽城から90里離れている」とある。

【01月】「正始の政変(司馬懿〈しばい〉によるクーデター)」
魏の太傅の司馬懿の上奏により、大将軍の曹爽(そうそう)、弟で中領軍の曹羲(そうぎ)、同じく弟で武衛将軍の曹訓(そうくん)と散騎常侍の曹彦(そうげん)が罷免され、諸侯の身分のまま私邸に帰る。
『三国志』(魏書・斉王紀)

⇒01月
戊戌(ぼじゅつ)の日(10日)
魏の担当官吏の上奏により、黄門の張当(ちょうとう)が逮捕され、廷尉に引き渡される。

その後、張当が曹爽の反乱計画の一味だと判明したうえ、尚書の丁謐(ていひつ)・鄧颺(とうよう)・何晏(かあん)、司隷校尉の畢軌(ひっき)、荊州刺史の李勝(りしょう)、大司農の桓範(かんはん)らも計画に加担していたことがわかったため、みな三族(父母・妻子・兄弟姉妹)を誅滅される。
『三国志』(魏書・斉王紀)

先の192年4月の『後漢書』(献帝紀)の『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「三族とは、父の一族、母の一族、妻の一族のことである」という。

『角川 新字源 改訂新版』(小川環樹〈おがわ・たまき〉、西田太一郎〈にしだ・たいちろう〉、赤塚忠〈あかつか・きよし〉、阿辻哲次〈あつじ・てつじ〉、釜谷武志〈かまたに・たけし〉、木津祐子〈きづ・ゆうこ〉編 KADOKAWA)には、まず「父族(父の一家の者)・母族・妻族」「父・子・孫」「父母・兄弟・妻子」「父の兄弟・母の兄弟・子の兄弟」の4つの項目が挙げられ、さらに「三族之刑」として「漢代、謀反・大逆の罪を犯した者は、父母・妻子・同産(兄弟姉妹)をも棄市(市場での首切り)に処する刑罰)」との説明があった。

⇒01月
魏で大将軍の曹爽らが処刑されたことを受け、魏の右将軍の夏侯霸(かこうは)らが蜀に降る。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【01月】
丙午(へいご)の日(18日)
魏の曹芳が大赦を行う。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【01月】
丁未(ていび)の日(19日)
魏の曹芳が、太傅の司馬懿を丞相に任じようとしたものの、司馬懿が固辞したため沙汰やみになる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

『漢魏春秋』…このときの司馬懿の丞相就任固辞と九錫(きゅうせき)辞退の話。

【03月】「朱然(しゅぜん)の死」
呉の左大司馬の朱然が死去する。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【04月】「魏の改元」
乙丑(いっちゅう)の日(8日)
魏の曹芳が、「正始」を「嘉平」と改元する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【04月】「蔣済(しょうせい)の死」
丙子(へいし)の日(19日)
魏の太尉の蔣済が死去する。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【04月】
蜀の劉禅が大赦を行う。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【04月】
呉で、2羽の烏(カラス)が鵲(カササギ)をくわえ、東館に落ちるという凶事が起こる。

丙寅(へいいん)の日(9日)
呉の驃騎将軍の朱拠(しゅきょ)が、丞相代行としてその鵲を焼き、祭りを執り行う。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【06月】
戊戌(ぼじゅつ)の日(?日)
呉の塩官の臨平湖で宝鼎(ほうてい)が現れる。
『三国志』(呉書・呉主伝)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『呉録』

【08月】
癸丑(きちゅう)の日(?日)
呉の章安で白い鳩(ハト)が現れる。
『三国志』(呉書・呉主伝)の裴松之注に引く『呉録』

【秋】
蜀の衛将軍の姜維(きょうい)が出撃し、魏の雍州を攻めたものの、勝つことができずに帰国する。蜀の将軍の句安(こうあん)と李韶(りしょう)が魏に降った。
『三国志』(蜀書・後主伝)

⇒秋
蜀の姜維が、魏の雍州に軍を進め、麴山(きくざん)に城を築く。しかし、魏の郭淮(かくわい)らがこれを討ち破った。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【12月】
辛卯(しんぼう)の日(9日)
魏の曹芳が、司空の王淩(おうりょう)を太尉に任ずる。

庚子(こうし)の日(18日)
魏の曹芳が、司隷校尉の孫礼(そんれい)を司空に任ずる。
『三国志』(魏書・斉王紀)

【?月】
この年、石崇(せきすう)が生まれた(~300年)。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(249年)に亡くなったとされる人物」
王弼(おうひつ)何晏(かあん)桓範(かんはん)朱然(しゅぜん。施然〈しぜん〉)徐邈(じょばく)蔣済(しょうせい)全琮(ぜんそう)?曹訓(そうくん)曹彦(そうげん)曹爽(そうそう)曹則(そうそく)孫鄰(そんりん)丁謐(ていひつ)鄧颺(とうよう)馬忠(ばちゅう)A ※あざなは徳信(とくしん)畢軌(ひっき)李勝(りしょう)令狐愚(れいこぐ)

全琮の死については先にも触れたが、『三国志』(呉書・呉主伝)では赤烏10(247)年1月の記事に見え、『三国志』(呉書・全琮伝)ではこの年(249年)に亡くなったとある。『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表は後者を採っており、『正史 三国志8』の年表は前者を採っている。

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