230年(魏の太和4年・蜀の建興8年・呉の黄龍2年)の主な出来事

-230年- 庚戌(こうじゅつ)
【魏】 太和(たいわ)4年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉)
【蜀】 建興(けんこう)8年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 黄龍(こうりょう)2年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
魏(ぎ)の曹叡が合肥新城(ごうひしんじょう)を築く。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【02月】
壬午(じんご)の日(4日)
魏の曹叡が詔(みことのり)を下す。「戦乱の勃発以来、経学(けいがく)はまったく廃れ、若者たちの行動も古典によろうとはしなくなった」とし、「郎吏(ろうり)のうち、一経に通暁している者や、民を治めるに足る才能の持ち主があれば、これを博士(はくし)が試験し、優秀な成績を収めた者を速やかに起用せよ」としたうえ、「表面だけ華美で内実がなく、道理の根本に努めようとしない者はすべて罷免する」というもの。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)

【02月】
戊子(ぼし)の日(10日)
魏の曹叡が、太傅(たいふ)と三公に詔を下し、文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)の『典論(てんろん)』を石に刻ませ、その石碑を霊廟(れいびょう)の外に立てるよう命ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【02月】
癸巳(きし)の日(15日)
魏の曹叡が、大将軍(だいしょうぐん)の曹真(そうしん)を大司馬(だいしば)に、驃騎将軍(ひょうきしょうぐん)の司馬懿(しばい)を大将軍に、遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫淵(こうそんえん)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に、それぞれ任ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【04月】
魏の太傅の鍾繇(しょうよう)が死去する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【06月】「卞氏(べんし)の崩御(ほうぎょ)」
戊子の日(11日)
魏の太皇太后の卞氏が崩御する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【06月】
丙申(へいしん)の日(19日)
魏の曹叡が上庸郡(じょうようぐん)を廃止する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

ここでは、上庸郡の廃止に伴う上庸県などの県の扱いについてはイマイチわからなかった。

後の237年6月に「魏の曹叡が、魏興郡(ぎこうぐん)から魏陽県(ぎようけん)を、錫郡(せきぐん)から安富県(あんふけん)と上庸県を、それぞれ分割し、上庸郡を設置する」という記事があった。ということで、少なくとも上庸県については、このとき錫郡に併せられたようだ。

【07月】
魏の曹叡が、武宣卞后(ぶせんべんこう。卞氏)を高陵(こうりょう。曹操〈そうそう〉の陵)に合葬する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【07月】
魏の曹叡が、大司馬の曹真と大将軍の司馬懿に詔を下し、蜀の討伐を命ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【秋】
魏の曹叡が、司馬懿を西城(せいじょう)経由で、張郃(ちょうこう)を子午(しご)経由で、曹真を斜谷(やこく)経由で、それぞれ蜀の漢中(かんちゅう)攻めに遣わす。

蜀の丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)は、成固(せいこ)と赤阪(せきはん)で待ち受けたが、大雨で道路が遮断されたため、魏の曹真らはみな帰還せざるを得なくなった。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

⇒09月
大雨が降り、伊水(いすい)・洛水(らくすい)・黄河(こうが)・漢水(かんすい)が氾濫する。魏の曹叡は、出征中の曹真らに詔を下し、軍を還すよう命じた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【08月】
辛巳(しんし)の日(5日)
魏の曹叡が東方へ巡幸し、使者を遣わして犠牲(いけにえ)の牛を捧げ、中岳(ちゅうがく。嵩山〈すうざん〉)を祭る。
『三国志』(魏書・明帝紀)

ここで「『魏書』にいう」として、「曹叡が、巡幸の途中で繁昌(はんしょう)を通りかかったとき、執金吾(しつきんご)の臧霸(そうは)を臨時の太尉に任じて、犠牲の牛を捧げさせ、曹丕が漢(かん)の献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)から禅譲を受けた壇を祭った」とある。

また「臣(わたくし)裴松之(はいしょうし)は考える」ともあり、「『漢紀(かんき。後漢紀〈ごかんき〉)』には、漢の章帝(しょうてい)の元和(げんわ)3(86)年、高邑県(こうゆうけん)に詔を下して、漢の光武帝(こうぶてい)が即位した壇を五成陌(ごせいはく)で祭らせ、臘祭(ろうさい。冬至の後、第3の戌の日に先祖を祭る)に家々の門戸を祭る行事になぞらえたとあること」を指摘。

「こうしたことは、前の時代にすでに行われた慣例ではあるが、壇を作って天を祭ったとしても、壇は神ではない。いま天帝に対する祭事もなく、空虚な壇に祭祀を行うのは、儀式や礼法の書物を調べてみても、何を根拠にしたことなのかよくわからない」としている。

さらに『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると、「五成陌は、おそらく地名であろう」という。

【08月】
乙未(いつび)の日(19日)
魏の曹叡が許昌宮(きょしょうきゅう)に行幸する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【10月】
乙卯(いつぼう)の日(11日)
魏の曹叡が巡幸を終え、洛陽宮(らくようきゅう)に還幸する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【10月】
庚申(こうしん)の日(16日)
魏の曹叡が詔を下す。「罪人のうち、死刑囚以外の者を許すが、その保釈金にはそれぞれ格差をつける」というもの。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【11月】
太白星(たいはくせい。金星)が歳星(さいせい。木星)を犯す。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【12月】
丙寅(へいいん)の日(23日)
魏の曹叡が、公卿(こうけい)に賢良(けんりょう。才能や人格の優れた人物)を推挙させる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【12月】
辛未(しんび)の日(28日)
魏の曹叡が、文昭甄后(ぶんしょうしんこう。曹丕の夫人で曹叡の生母)を朝陽陵(ちょうようりょう)に改葬する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【?月】
この年、蜀の魏延(ぎえん)が、陽谿(ようけい)で魏の雍州刺史(ようしゅうしし)の郭淮(かくわい)を撃破した。

また蜀の劉禅が、息子で魯王(ろおう)の劉永(りゅうえい)を甘陵王(かんりょうおう)に、同じく梁王(りょうおう)の劉理(りゅうり)を安平王(あんぺいおう)に、それぞれ移封した。名目上の王とはいえ、魯・梁とも、呉との国境にあったための措置。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【?月】
この年、呉の孫権が、詔を下して都講祭酒(とこうさいしゅ)の官を設置し、呉の子弟たちの教育にあたらせた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
この年、呉の孫権が、将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)を遣わし、武装兵1万をひきいて海を渡り、夷洲(いしゅう)と亶洲(たんしゅう)を探索するよう命ずる。

しかし、衛温らは亶洲を探し当てることができず、夷洲から数千の住民を連れ帰るにとどまった。
『三国志』(呉書・呉主伝)

『正史 三国志6』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると、「夷洲は台湾(たいわん)に、亶洲は一説にわが国の種子島(たねがしま)にあたるとされる。『史記(しき)』(封禅書〈ほうぜんしょ〉)などに見えるように、東海(とうかい)の中には仙山(せんざん)があり、そこには不老不死の仙薬があると考えられていた」とある。

⇒春
呉の孫権が、衛温と諸葛直を、夷洲および亶洲の探索に遣わす。その後、ふたりは夷洲には行くことができたが、亶洲には行き着くことができなかった。
『正史 三国志8』(小南一郎訳 ちくま学芸文庫)の年表

【?月】
この年、呉の孫権が、巣湖(そうこ)に東興隄(とうこうてい)を築いてせき止めた。
『三国志』(呉書・諸葛恪伝〈しょかつかくでん〉)

特記事項

「この年(230年)に亡くなったとされる人物」
呉質(ごしつ)鍾繇(しょうよう)張裔(ちょうえい)張温(ちょうおん)A ※あざなは恵恕(けいじょ)陳脩(ちんしゅう)卞氏(べんし)B ※曹操(そうそう)の妻劉基(りゅうき)B ※劉繇(りょうよう)の息子梁習(りょうしゅう)

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