237年(〈魏の青龍5年〉→景初元年・蜀の建興15年・呉の嘉禾6年)の主な出来事

-237年- 丁巳(ていし)
【魏】 (青龍〈せいりょう〉5年) → 景初(けいしょ)元年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉)
【蜀】 建興(けんこう)15年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 嘉禾(かか)6年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【正月】
壬辰(じんしん)の日(?日)
魏(ぎ)の曹叡のもとに、「山茌県(さんしけん)で黄龍が現れた」との報告が届く。

このとき担当官吏が曹叡に上奏し、「魏は地統(ちとう)を得ておりますので、建丑(けんちゅう)の月(12月のこと)を正月とされるべきです」と述べた。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)

ここは理解できない部分があったため、こういう書き方に留めておく。『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)では、正月壬辰(の日)を18日と解釈されていたが、これについてもよくわからなかった。

【01月】
呉(ご)の孫権が詔(みことのり)を下す。3年の服喪の定めについて触れ、「肉親が亡くなったときに、すべての職務を放棄して葬儀に駆けつけることは許さない」という現在の規定について、「中央および地方にある官僚たちは、もう一度このことの是非を詳しく検討し、正しいあり方を理解させるように努め、この方針を細心に実行するように」というもの。

交代の者を待たずに、職務を放棄して肉親の葬儀に駆けつけた者への罰則については、様々な意見が出された。丞相(じょうしょう)の顧雍(こよう)が意見を取りまとめ、孫権に死刑の罰則を定めるよう上奏した。

その後、呉県令(ごけんれい)の孟宗(もうそう)が、職務を放棄して母の葬儀に駆けつけた。孟宗は葬儀を終えた後、自分から名乗り出て武昌(ぶしょう)で投獄され、いかなる刑でも甘受する考えを示した。

陸遜(りくそん)の命乞いを容れ、孫権は孟宗の死一等を減じたが、今後は同じように刑を減ずることのないよう命じた。それ以降、職務を放棄して肉親の葬儀に駆けつけるという風はなくなった。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【02月】
呉の陸遜が、昨年(236年)反乱を起こした鄱陽(はよう)の賊徒の彭旦(ほうたん)らの討伐に向かう。そして、この年のうちにすべて討ち破った。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【03月】「魏の改元」
魏の曹叡が暦を改定し、「青龍」を「景初」と改元したうえ、この月(3月)を4月とする。

衣服は黄色を尊んで用いることにし、犠牲(いけにえ)には白い獣を用い、軍事では頭が黒の白馬(?)に乗り、大きな赤い旗を立て、朝廷の会合には大きな白い旗を立てた。

また、太和暦(たいわれき)を改めて景初暦と名付けた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『魏書』…曹叡の太子時代の論著。

ここで曹叡の太子時代とあったが、曹丕はなかなか太子を定めず、危篤に陥って初めて、曹叡が太子に立てられたはず。曹叡の皇子時代ならわかるが、やや不可解だった。

裴松之(はいしょうし)の考え…このとき曹叡が取った措置の考察。

『正史 三国志1』の訳者注によると「これより景初3(239)年の12月まで景初暦が用いられ、暦が1か月ずつ繰り上がることになる」という。

また、『三国志』(魏書・公孫度伝〈こうそんたくでん〉)に付された「公孫淵伝(こうそんえんでん)」の『正史 三国志2』(井波律子、今鷹真訳 ちくま学芸文庫)の訳者注には、「明帝(曹叡)は青龍5(237)年3月、『景初』と改元すると同時に新暦を用い、旧暦の3月を4月とし、12月を正月とした」ともある。

⇒03月
魏の曹叡が、「青龍」を「景初」と改元したうえ、青龍5年3月を景初元年4月とする。また、服色(王朝のシンボルカラー)を黄色と定め、太和暦を景初暦と改めた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【05月】
己巳(きし)の日(2日)
魏の曹叡が洛陽宮(らくようきゅう)に還幸する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【05月】
己丑(きちゅう)の日(22日)
魏の曹叡が大赦を行う。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【06月】
己亥(きがい)の日(3日)
魏の曹叡が、尚書令(しょうしょれい)の陳矯(ちんきょう)を司徒(しと)に、尚書右僕射(しょうしょゆうぼくや)の衛臻(えいしん)を司空(しくう)に、それぞれ任ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【06月】
丁未(ていび)の日(11日)
魏の曹叡が、魏興郡(ぎこうぐん)から魏陽県(ぎようけん)を、錫郡(せきぐん)から安富(あんふ)・上庸(じょうよう)の両県を、それぞれ分割し、上庸郡を設置する。また錫郡を廃止し、錫県を魏興郡に併せた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【06月】
戊申(ぼしん)の日(12日)
魏の洛陽で地震が起こる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【05月】
14日、呉で地震が起こる。
『三国志』(呉書・歩騭伝〈ほしつでん〉)

ここでは(原文にも)5月14日とだけあり、干支(かんし)についての記述はなかった。この時期、魏の暦が繰り上がっている関係から、記事としてはこの位置に入ると思われる。

【06月】
魏の担当官吏が曹叡に上奏する。「太祖(たいそ。曹操〈そうそう〉)・高祖(こうそ。曹丕〈そうひ〉)・烈祖(れっそ。曹叡)の三祖の霊廟(れいびょう)は、万世の後まで壊さずにおかれ、そのほかの四廟(天子〈てんし〉の廟は七廟)は、近い関係が絶えれば順次取り壊されて、周(しゅう)の后稷(こうしょく)・文王(ぶんのう)・武王(ぶおう)の三祖の霊廟の制度と同じようになさいますように」というもの。
『三国志』(魏書・明帝紀)

ここで「孫盛(そんせい)はいう」として、この上奏について、「曹叡がまだ亡くなってもいないのに、前もって曹叡自身を烈祖と尊び、顕彰していること」を指摘し、この上奏と曹叡を批判している。

【07月】
丁卯(ていぼう)の日(2日)
魏の司徒の陳矯が死去する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【07月】
呉の孫権が、朱然(しゅぜん)らに2万の兵を付けて遣わし、魏の江夏郡(こうかぐん)を包囲する。魏の荊州刺史(けいしゅうしし)の胡質(こしつ)らが反撃したため、朱然は退却した。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【07月】
以前、呉の孫権は、高句驪(こうくり)に使者を遣わして誼(よしみ)を通じ、遼東(りょうとう)を攻めようとしていた。

そこで魏では、幽州刺史(ゆうしゅうしし)の毌丘倹(かんきゅうけん)に、諸軍および鮮卑(せんぴ)と烏丸(うがん)の軍勢も統率させ、遼東の南境に駐屯するよう命じた。さらに、曹叡の詔によって公孫淵(こうそんえん)が召し寄せられた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【07月】
遼東の公孫淵が魏に背く。魏の幽州刺史の毌丘倹は、軍を進めて討伐しようとしたが、ちょうど10日間も雨が続き、遼水(りょうすい)が満ちあふれる。曹叡は毌丘倹に詔を下し、右北平(ゆうほくへい)への引き揚げを命じた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【07月】
烏丸の単于(ぜんう)の寇婁敦(こうろうとん)と遼西(りょうせい)の烏丸都督王(うがんととくおう)の護留(ごりゅう)らが、住んでいた遼東から部族をひきいて魏に帰順する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【07月】
己卯(きぼう)の日(14日)
魏の曹叡が詔を下し、遼東の将校・軍吏・兵士・庶民のうち、公孫淵に脅迫されてやむなく従った者たちをみな許す。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【07月】
辛卯(しんぼう)の日(26日)
太白星(たいはくせい。金星)が昼間に現れる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【?月】「公孫淵の自立、一時的ながら四国状態に」
遼東の公孫淵が、魏の毌丘倹が引き揚げた後、自立して燕王(えんおう)と称し、独自の百官を設置する。また、年号を建てて「紹漢(しょうかん)元年」と称した。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【06月】「張皇后(ちょうこうごう)の崩御(ほうぎょ)」
蜀(しょく)の張皇后が崩御する。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

この記事についても、魏の暦が繰り上がっている関係から載せる位置が難しい。

【?月】
魏の曹叡が詔を下し、青州(せいしゅう)・兗州(えんしゅう)・幽州(ゆうしゅう)・冀州(きしゅう)の4州に、大々的に海船の建造を命ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【09月】
冀州・兗州・徐州(じょしゅう)・豫州(よしゅう)の4州が洪水に見舞われたため、魏の曹叡は、侍御史(じぎょし)を遣わして巡行視察を命じ、洪水で溺死した者や財産をなくした者に、官倉を開いて救済を図る。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【09月】「毛皇后(もうこうごう)の崩御」
庚辰(こうしん)の日(16日)
魏の毛皇后が崩御する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

⇒09月
魏の明帝(曹叡)が郭氏(かくし)を寵愛し、毛皇后を殺害する。
『正史 三国志8』の年表

【10月】
丁未(ていび)の日(13日)
月が熒惑星(けいわくせい。火星)を犯す。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【10月】
癸丑(きちゅう)の日(19日)
魏の曹叡が、悼毛后(とうもうこう。毛氏)を愍陵(びんりょう)に葬る。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【10月】
乙卯(いつぼう)の日(21日)
魏の曹叡が、洛陽の南にある委粟山(いぞくざん)に円丘(えんきゅう。冬至に天を祭る場所)を造営する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『魏書』…このときの曹叡の詔。

【10月】
呉の孫権が、衛将軍(えいしょうぐん)の全琮(ぜんそう)を遣わして六安(りくあん)を攻めさせる。しかし、全琮は戦果を上げることができなかった。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【12月】
壬子(じんし)の日(19日)
魏の曹叡が、初めて冬至に祭祀を執り行う。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【12月】
丁巳(ていし)の日(24日)
魏の曹叡が、襄陽郡(じょうようぐん)から臨沮(りんしょ)・宜城(ぎじょう)・旍陽(せいよう)・邔県(きけん)の4県を分割し、襄陽南部都尉(じょうようなんぶとい)の官を設置する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【12月】
己未(きび)の日(26日)
魏の担当官吏が曹叡に上奏し、「都(洛陽)に文昭皇后(ぶんしょうこうごう。甄氏〈しんし〉)の霊廟を建立されますように」と求める。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【12月】
魏の曹叡が、襄陽郡から鄀葉県(じゃくようけん)を分割し、義陽郡(ぎようぐん)に併せる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『魏略(ぎりゃく)』…この年、長安(ちょうあん)にあった、もろもろの鐘や簴(きょ。鐘や太鼓を支える台)・駱駝像(らくだぞう)・銅人(どうじん)・承露盤(しょうろばん)を洛陽に移した話。

『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』…上の『魏略』の話の補足。「明帝(曹叡)が承露盤を移そうとした際に壊れ、その音は数十里まで響き渡り、金狄(きんてき。黄金の鋳造物)がすすり泣いたため、そのまま霸城(はじょう)に承露盤を留め置いた」という。

『魏略』…司徒軍議掾(しとぐんぎえん)の董尋(とうじん)が、曹叡への上奏文で述べた諫言。

【?月】
この年、呉の諸葛恪(しょかつかく)が、山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)平定の任務を終え、北へ出て廬江(ろこう)に軍を駐屯させた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

特記事項

「この年(237年)に亡くなったとされる人物」
呉壱(ごいつ。呉懿〈ごい〉)周魴(しゅうほう)曹抗(そうこう)張氏(ちょうし)H ※劉禅(りゅうぜん)の妻陳矯(ちんきょう)毛氏(もうし)

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