-275年- 乙未(いつび)
【晋】 咸寧(かんねい)元年 ※武帝(司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 天冊(てんさく)元年 ※帰命侯(孫晧〈そんこう〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】「晋の改元」
戊午(ぼご)の日(1日)、朔(さく)
晋の司馬炎が大赦を行い、「泰始(たいし)」を「咸寧」と改元する。
『晋書』(武帝紀)
【?月】「呉の改元」
呉の孫晧のもとに、「呉郡で土中から、長さ1尺(せき)、幅3寸の銀が掘り出され、それには年月などの文字が刻まれている」との報告が届く。
そこで孫晧は大赦を行い、「鳳皇(ほうおう。鳳凰)」を「天冊(天から賜った冊書)」と改元した。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
⇒01月
呉の孫晧が、「鳳皇(鳳凰)」を「天冊」と改元する。
『正史 三国志8』の年表(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【02月】
晋の将士に結婚相手を求める者が多いため、司馬炎が、5人(以上)の娘がいる家の租賦(そふ)を免除する。
『晋書』(武帝紀)
【02月】
辛酉(しんゆう)の日(?日。2月以降では3月5日が「辛酉の日」だが……)
晋の司馬炎が、もと鄴令(鄴県令)の夏謖(かしょく)が清廉で評判だったため、穀物100斛を下賜する。
『晋書』(武帝紀)
【02月】
辛酉の日(?日)
晋の俸禄が少ないため、司馬炎が、公卿以下にそれぞれ差をつけて帛(きぬ)を下賜する。
『晋書』(武帝紀)
【02月】
辛酉の日(?日)
反虜である(鮮卑の)樹機能(じゅきのう)が、晋に人質を送って降伏を願い出る。
『晋書』(武帝紀)
【05月】
晋の下邳や広陵で暴風が吹き、樹木が抜け、家屋が壊れる。
『晋書』(武帝紀)
【06月】
鮮卑の力微(りきび。拓跋力微〈たくばつりきび〉)が晋に息子を遣わし、献上品を捧げる。
『晋書』(武帝紀)
【06月】
呉人が晋の江夏郡に侵入する。
『晋書』(武帝紀)
【06月】
晋の西域戊己校尉の馬循(ばじゅん)が、背いた鮮卑を討伐し、これを撃破したうえ、その渠帥(きょすい)を斬る。
『晋書』(武帝紀)
【06月】
戊申(ぼしん)の日(24日)
晋の司馬炎が、太子詹事(たいしせんじ)の官を設置する。
『晋書』(武帝紀)
【07月】
甲申(こうしん)の日(30日)、晦(かい)
日食が起こる。
『晋書』(武帝紀)
【07月】
甲申の日(30日)、晦
晋の郡国で螟(ズイムシ)が発生する。
『晋書』(武帝紀)
【08月】
壬寅(じんいん)の日(18日)
晋の沛王の司馬子文(しばしぶん)が薨去(こうきょ)する。
『晋書』(武帝紀)
【08月】
壬寅の日(18日)
晋の司馬炎が、もと太傅の鄭沖(ていちゅう。274年没)、もと太尉の荀顗(じゅんぎ。274年没)、もと司徒の石苞(せきほう。273年没)、もと司空の裴秀(はいしゅう。271年没)、もと驃騎将軍の王沈(おうしん。266年没)、安平献王の司馬孚(しばふ。272年没)ら、および太保の何曾(かそう。この時点では存命、278年没)、司空の賈充(かじゅう。この時点では存命、282年没)、太尉の陳騫(ちんけん。この時点では存命、281年没)、中書監の荀勗(じゅんきょく。この時点では存命、289年没)、平南将軍の羊祜(ようこ。この時点では存命、278年没)、斉王の司馬攸(しばゆう。この時点では存命、283年没)らをみな建国の功臣として併せ祭る。
『晋書』(武帝紀)
【09月】
甲子(こうし)の日(11日)
晋の青州で螟が発生し、徐州で洪水が発生する。
『晋書』(武帝紀)
【10月】
乙酉(いつゆう)の日(2日)
晋の常山王の司馬殷(しばいん)が薨去する。
『晋書』(武帝紀)
【10月】
癸巳(きし)の日(10月)
晋の彭城王の司馬権(しばけん)が薨去する。
『晋書』(武帝紀)
【11月】
癸亥(きがい)の日(11日)
晋の司馬炎が、宣武観で大規模な閲兵式を執り行い、己巳(きし)の日(17日)まで続ける。
『晋書』(武帝紀)
【12月】
丁亥(ていがい)の日(5日)
晋の司馬炎が、宣帝廟(祖父の司馬懿〈しばい〉の廟)を高祖と、景帝廟(伯父の司馬師〈しばし〉の廟)を世宗と、文帝廟(父の司馬昭〈しばしょう〉の廟)を太祖と、それぞれ追尊する。
『晋書』(武帝紀)
【12月】
この月、晋で疫病が大流行し、洛陽の死者が過半数に上る。
『晋書』(武帝紀)
【12月】
この月、晋の司馬炎が、裴頠(はいき)を鉅鹿公に封ずる。
『晋書』(武帝紀)
特記事項
「この年(275年)に亡くなったとされる人物」
賀邵(がしょう)・司馬殷(しばいん)・司馬権(しばけん)・司馬子文(しばしぶん)
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