276年(晋の咸寧2年・〈呉の天冊2年〉→天璽元年)の主な出来事

-276年- 丙申(へいしん)
【晋】 咸寧(かんねい)2年 ※武帝(司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 (天冊〈てんさく〉2年) → 天璽(てんじ)元年 ※帰命侯(孫晧〈そんこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
晋の司馬炎が、疫病の流行を鑑み、朝見を中止する。そして諸々の官吏から士卒に至るまで、それぞれ差をつけて生糸を下賜した。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
丙戌(へいじゅつ)の日(5日)
晋の河間王の司馬洪(しばこう)が薨去(こうきょ)する。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
甲午(こうご)の日(13日)
晋の司馬炎が、刑期が5年以下の罪人を赦免する。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
甲午の日(13日)
東夷の8か国が晋に帰化する。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
甲午の日(13日)
幷州虜が長城を侵犯したが、晋の監幷州諸軍事の胡奮(こふん)が撃破する。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
甲午の日(13日)
これより先、敦煌太守の尹璩(いんきょ)が死去すると、州では敦煌令(敦煌県令)の梁澄(りょうちょう)に太守職を兼ねさせたが、議郎の令狐豊(れいこほう)が梁澄を退け、自ら郡の政務を執った。

令狐豊が死去すると、弟の令狐宏(れいここう)が代わった。ここに至って涼州刺史の楊欣(ようきん)が令狐宏を斬り、その首を洛陽に伝送した。
『晋書』(武帝紀)

【02月】
甲午の日(13日)
しばらく体調を崩していた晋の司馬炎が回復すると、群臣が祝辞を述べる。

しかし司馬炎は詔を下し、日ごろから疫病で亡くなった者のことを悲しみ悼んできたとし、群臣の祝辞をすべて取り下げさせる。
『晋書』(武帝紀)

【05月】
晋の鎮西大将軍・汝陰王の司馬駿(しばしゅん)が北胡を討伐し、その渠帥(きょすい)である吐敦(ととん)を斬る。
『晋書』(武帝紀)

【05月】「晋の国子学の設置」
晋の司馬炎が、国子学(貴族の子弟や天下の秀才を教育するための学校)を建てる。
『晋書』(武帝紀)

【05月】
庚午(こうご)の日(21日)
晋の司馬炎が、大規模な雨乞いの儀式を行う。
『晋書』(武帝紀)

【06月】
癸丑(きちゅう)の日(?日。下の7月の記事に「癸丑の日」があることから、干支〈かんし〉が誤っていると思われる)
晋の司馬炎が、太廟に荔支(レイシ。ムクロジ科の常緑高木。ライチ)を供える。
『晋書』(武帝紀)

【06月】
甲戌(こうじゅつ)の日(?日)
彗星が氐宿(ていしゅく。二十八宿のひとつ)に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【06月】
甲戌の日(?日)
晋では春から日照りが続いていたが、この月に至って初めて雨が降る。
『晋書』(武帝紀)

【06月】「孫楷(そんかい)の投降」
甲戌の日(?日)
呉の京下督(京城の守備隊長)の孫楷が、軍勢をひきいて晋に来降する。司馬炎は、孫楷を車騎将軍に任じ、丹楊侯に封じた。
『晋書』(武帝紀)

⇒08月
呉の京下督の孫楷が、晋に投降する。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【06月】
甲戌の日(?日)
2頭の白龍が、晋の新興の井戸の中に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
彗星が大角(たいかく。星の名。牛飼座のアークチュルス)に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
呉の臨平湖は漢末以来ふさがっていたが、ここに至って自然に開く。父老の伝承によれば、「この湖がふさがると天下が乱れ、この湖が開くと天下が鎮まる」とのことだった。
『晋書』(武帝紀)

⇒?月「呉の改元」
呉の孫晧のもとに、呉郡から報告が届く。「臨平湖は漢末以来、雑草が茂って水路が通じなくなっておりましたが、いま再び水路が通じました。土地の古老たちの言い伝えでは、『この湖がふさがれば天下は乱れ、通じれば天下は安定する』とのことでございます。また、湖の岸辺で石の函(はこ)が発見され、中に小石が入っておりました。その小石は青白い色をしていて、長さ4寸、幅2寸余りで、『皇帝』と刻まれているようです」というものだった。

そこで孫晧は、「天冊」を「天璽(天から賜った印璽)」と改元したうえ、大赦を行った。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【07月】
癸丑の日(5日)
晋の安平王の司馬隆(しばりゅう)が薨去する。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
癸丑の日(5日)
東夷の17か国が晋に内附(服従)する。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
癸丑の日(5日)
晋の河南と魏郡で川が荒れ、100余人が亡くなる。司馬炎は詔を下し、棺を支給した。
『晋書』(武帝紀)

【07月】
癸丑の日(5日)
鮮卑の阿羅多(あらた)らが国境地帯に侵攻したため、晋の西域戊己校尉の馬循(ばじゅん)が討伐にあたり、4千余人を斬首、9千余人を捕虜とする。ここに至って阿羅多らが来降した。
『晋書』(武帝紀)

【08月】
庚辰(こうしん)の日(2日)
晋の河東と平陽で地震が起こる。
『晋書』(武帝紀)

【08月】
己亥(きがい)の日(21日)
晋の司馬炎が、太保の何曾(かそう)を太傅に、太尉の陳騫(ちんけん)を大司馬に、司空の賈充(かじゅう)を太尉に、鎮軍大将軍・斉王の司馬攸(しばゆう)を司空に、それぞれ任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【08月】
彗星が太微(星垣〈せいえん〉。しし座の西端にある10星)に現れ、また9月には翼宿(二十八宿のひとつ)に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【08月】
丁未(ていび)の日(29日)
晋の司馬炎が、太倉を洛陽の城東に、常平倉を洛陽の東西の市場に、それぞれ建てる。
『晋書』(武帝紀)

【?月】
呉の会稽太守の車浚(しゃしゅん)と湘東太守の張詠(ちょうえい)が、算緡(さんびん。所得税の一種。銭1千文、一緡を単位として課税する)を納めていないということで、それぞれの郡に役人が遣わされ、ふたりとも斬首に処された。その首は諸郡の間を引き回された。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『江表伝』…車浚と熊睦(ゆうぼく)について。

【閏09月】
晋の荊州の5郡で洪水が発生し、4千余戸が流失する。
『晋書』(武帝紀)

【10月】
晋の司馬炎が、汝陰王の司馬駿(しばしゅん)を征西大将軍に、平南将軍の羊祜(ようこ)を征南大将軍に、それぞれ任ずる。
『晋書』(武帝紀)

【10月】
晋の羊祜が、司馬炎に呉の討伐を献策する。杜預(とよ)と張華(ちょうか)が賛成したものの、多くの者は反対した。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。

【10月】
丁卯(ていぼう)の日(21日)
晋の司馬炎が、楊氏(楊芷〈ようし〉)を皇后に立て、大赦を行い、王公以下および鰥夫(かんぷ。妻と死別した男性)と寡婦(かふ。夫と死別した女性)に、それぞれ差をつけて下賜する。
『晋書』(武帝紀)

ここで立てられた楊氏は、先の泰始(たいし)10(274)年7月に崩御した楊氏(楊艶〈ようえん〉。武元楊皇后)とはもちろん別人。一応補足しておく。

【11月】
2頭の白龍が、晋の梁国に現れる。
『晋書』(武帝紀)

【12月】
晋の司馬炎が、処士(仕官をしない士人)である安定の皇甫謐(こうほひつ)を召し寄せて太子中庶子に任じ、楊皇后の父で鎮軍将軍の楊駿(ようしゅん)を臨晋侯に封ずる。
『晋書』(武帝紀)

⇒12月
晋の司馬炎が、楊皇后の父である楊駿を車騎将軍に任じたうえ、臨晋侯に封ずる。
『正史 三国志8』の年表

【12月】
この月、晋の平州刺史の傅詢(ふじゅん)と前の広平太守の孟桓(もうかん)が清廉潔白と評判だったため、司馬炎が、傅詢には帛(きぬ)200匹、孟桓には帛100匹を下賜する。
『晋書』(武帝紀)

【?月】「呉の改元(予定)」
この年、呉の孫晧のもとに、鄱陽から報告が届く。「歴陽(歴陵)山中で石の脈理(すじめ)が文字の形をなしております。それらは全部で20字あり、『楚は九州の渚(しょ)にして、呉は九州の都。揚州の士が天子と作(な)り、四世にして治まり、太平な時代が始まる』と読めます」というものだった。

さらに「呉興の陽羨山(ようせんざん)には、中空になった岩があります。これは10余丈の大きさで、石室と呼ばれておりますが、その岩の各所に明らかな祥瑞が表れております」との報告も届いた。

そこで孫晧は、兼司徒の董朝(とうちょう)と兼太常の周処(しゅうしょ)を陽羨県に遣わし、その地を国山として、封禅の儀式を執り行った。

また、翌年(277年)から「天璽」を「天紀(てんき)」と改元することを決め、大赦を行った。これは、岩に表れた文字に対応しようとしてのことだった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『江表伝』…このとき、歴陽県にあった岩山を祭った話。

【?月】
この年、郭璞(かくはく)が生まれた(~324年)。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(276年)に亡くなったとされる人物」
司馬洪(しばこう)・司馬隆(しばりゅう)

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