276年(晋の咸寧2年・〈呉の天冊2年〉→天璽元年)の主な出来事

-276年- 丙申(へいしん)
【晋】 咸寧(かんねい)2年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 (天冊〈てんさく〉2年) → 天璽(てんじ)元年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉)

スポンサーリンク
スポンサーリンク

月別および季節別の主な出来事

【?月】「呉(ご)の改元」
呉の孫晧のもとに呉郡(ごぐん)からの報告が届く。「臨平湖(りんぺいこ)は漢末(かんまつ)以来、雑草が茂って水路が通じなくなっておりましたが、いま再び水路が通じました。土地の古老たちの言い伝えでは、『この湖がふさがれば天下は乱れ、通じれば天下は安定する』とのことでございます。また、湖の岸辺で石の函(はこ)が発見され、中に小石が入っておりました。その小石は青白い色をしていて、長さ4寸(すん)、幅2寸余りで、『皇帝』と刻まれているようです」というものだった。

そこで孫晧は「天冊」を「天璽(天から賜った印璽)」と改元したうえ大赦を行った。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)

⇒07月
呉の孫晧が「天冊」を「天璽」と改元する。このころしばしば祥瑞(しょうずい)の報告があり、孫晧を喜ばせた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【?月】
呉の会稽太守(かいけいたいしゅ)の車浚(しゃしゅん)と湘東太守(しょうとうたいしゅ)の張詠(ちょうえい)が算緡(さんびん。所得税の一種。銭1千文〈もん〉、一緡を単位として課税する)を上納していないということで、それぞれの郡に役人が遣わされ、ふたりとも斬首に処された。その首は諸郡の間を引き回された。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『江表伝(こうひょうでん)』…車浚と熊睦(ゆうぼく)について。

【08月】「孫楷(そんかい)の投降」
呉の京下督(けいかとく。京城の守備隊長)の孫楷が晋(しん)に投降する。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

【08月】
晋の司馬炎が、何曾(かそう)を太傅(たいふ)に、陳騫(ちんけん)を大司馬(だいしば)に、賈充(かじゅう)を太尉(たいい)に、司馬攸(しばゆう)を司空(しくう)に、それぞれ任ずる。
『正史 三国志8』の年表

【10月】
晋の羊祜(ようこ)が司馬炎に呉の討伐を献策する。杜預(とよ)と張華(ちょうか)が賛同したものの、多くの者は羊祜の策に反対した。
『正史 三国志8』の年表

杜預については慣例として「どよ」と読まれるとのこと。

【?月】
晋の司馬炎が楊氏(ようし)を皇后に立てる。
『正史 三国志8』の年表

ここで立てられた楊氏は、先の泰始(たいし)10(274)年に崩御(ほうぎょ)した楊氏(楊元后〈ようげんこう〉)とはもちろん別人。『正史 三国志8』の年表を見ただけではまぎらわしかったので一応補足しておく。

【12月】
晋の司馬炎が、楊皇后の父である楊駿(ようしゅん)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)に任じたうえ臨晋侯(りんしんこう)に封ずる。
『正史 三国志8』の年表

⇒?月
晋の司馬炎が、楊氏(楊悼后)の父である楊駿を臨晋侯に封ずる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』の『三国志』年表

【?月】「呉の改元(予定)」
この年、呉の孫晧のもとに鄱陽(はよう)から報告が届く。「歴陽(れきよう。歴陵〈れきりょう〉)山中で石の脈理(すじめ)が文字の形をなしております。それらは全部で20字あり、『楚(そ)は九州の渚(しょ)にして、呉は九州の都。揚州(ようしゅう)の士が天子(てんし)と作(な)り、四世にして治まり、太平な時代が始まる』と読めます」というものだった。

さらに、「呉興(ごこう)の陽羨山(ようせんざん)には中空になった岩があります。これは10余丈(じょう)の大きさで『石室(せきしつ)』と呼ばれておりますが、その岩の各所に明らかな祥瑞が表れております」との報告も届いた。

そこで孫晧は兼司徒(けんしと)の董朝(とうちょう)と兼太常(けんたいじょう)の周処(しゅうしょ)を陽羨県に遣わし、その地を国山(こくざん)として封禅(ほうぜん)の儀式を執り行った。

また、翌年(277年)から「天璽」を「天紀(てんき)」と改元することを決めたうえ大赦も行った。これは岩に表れた文字に対応しようとしてのことだった。
『三国志』(呉書・孫晧伝)

『江表伝』…このとき歴陽県にあった岩山を祭った話。

スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
スポンサーリンク
正史年表 270年代
このページをシェアする
「かぶらがわ」をフォローする
今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

コメント

タイトルとURLをコピーしました