226年(魏の黄初7年・蜀の建興4年・呉の黄武5年)の主な出来事

-226年- 丙午(へいご)
【魏】 黄初(こうしょ)7年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉) → 明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉)
【蜀】 建興(けんこう)4年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 黄武(こうぶ)5年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【春】
蜀(しょく)の都護(とご)の李厳(りげん)が、永安(えいあん)から帰還して江州(こうしゅう)に駐留し大規模な城を築く。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【春】
呉(ご)の孫権が令を下す。民が耕地を離れ、父子や夫婦が互いに助け合うことができなくなっている実情を哀れみ、「州郡に伝達して民を休息させるための方策を実施させるように」というもの。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【01月】
魏(ぎ)の曹丕が許昌(きょしょう)に行幸した際、許昌の城門が理由もなく崩壊する。これを不吉だと考えた曹丕は許昌に入城しなかった。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉)

【01月】
壬子(じんし)の日(10日)
魏の曹丕が洛陽宮(らくようきゅう)に還幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【03月】
魏の曹丕が九華台(きゅうかだい)を築く。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【05月】
魏の曹丕が重体となり、ようやく曹叡を皇太子(こうたいし)に立てる。
『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)

【05月】
丙辰(へいしん)の日(16日)
魏の曹丕が危篤に陥り、中軍大将軍(ちゅうぐんだいしょうぐん)の曹真(そうしん)、鎮軍大将軍(ちんぐんだいしょうぐん)の陳羣(ちんぐん)、征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の曹休(そうきゅう)、撫軍大将軍(ぶぐんだいしょうぐん)の司馬懿(しばい)を召し寄せる。4人は曹丕から遺詔を受け、継主を補佐することになった。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【05月】
丙辰の日
魏の曹丕が、後宮の淑媛(しゅくえん。妃妾〈ひしょう〉の位)や昭儀(しょうぎ。妃妾の位)以下の宮女を実家に帰す。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【05月】「曹丕の崩御(ほうぎょ)」
丁巳(ていし)の日(17日)
魏の曹丕が嘉福殿(かふくでん)で崩御する。このとき40歳だった。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「『魏書』にいう」として、「崇華(すうか)の前殿(ぜんでん)に殯(かりもがり)した」とある。

またこのあとのくだりで、鄄城侯(けんじょうこう)の曹植(そうしょく)が書いたという誄(るい。哀悼文)が出てくる。鄄城侯の曹植とあったが、この時点では鄄城王ではないのか?

【05月】「曹叡の即位」
丁巳の日
魏の曹叡が曹丕の跡を継ぎ、魏の帝位に即く。曹叡は大赦を行い、皇太后(こうたいごう)の卞氏(べんし。曹操の正室)を尊称して太皇太后(たいこうたいごう)とし、皇后(こうごう)の郭氏(かくし。曹丕の正室)を尊称して皇太后とした。また、諸臣にも格差をつけて封爵を行った。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【06月】
戊寅(ぼいん)の日(9日)
魏の曹叡が曹丕を首陽陵(しゅようりょう)に葬る。「殯(ひん。埋葬する前に柩〈ひつぎ〉に遺体を納めて安置すること)から埋葬まで、すべて曹丕が生前に定めた、死後に対する定め通りに執り行った」ともある。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』にいう」として、「明帝(曹叡)が葬列の出発を見送ろうとすると、曹真・陳羣・王朗(おうろう)らが暑気を理由に強く諫めたので、曹叡は見送りを取りやめた」とある。

これに対してさらに「孫盛(そんせい)はいう」として、「そもそも埋葬のことは、孝子にとっての最大の悲しみであり、人倫の道においてこれほど重いものはない」としたうえ、陳羣らが諫言したことをひどく非難している。

【06月】
癸未(きび)の日(14日)
魏の曹叡が亡き生母の甄氏(しんし。曹丕の夫人)に文昭皇后(ぶんしょうこうごう)の諡号(しごう)を追贈する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【06月】
壬辰(じんしん)の日(23日)
魏の曹叡が弟の曹蕤(そうずい)を陽平王(ようへいおう)に封ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【08月】
呉の孫権が魏の江夏郡(こうかぐん)を攻めたものの、魏の江夏太守(こうかたいしゅ)の文聘(ぶんぺい)が堅守する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

⇒07月
呉の孫権が魏の曹丕の崩御を聞き、魏の江夏に軍を進め石陽(せきよう)を包囲したが、陥すことができずに引き揚げた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【08月】
辛巳(しんし)の日(12日)
魏の曹叡が息子の曹冏(そうけい)を清河王(せいかおう)に封ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【?月】
呉の諸葛瑾(しょかつきん)と張霸(ちょうは)らが魏の襄陽(じょうよう)に侵攻する。しかし、魏の撫軍大将軍の司馬懿に撃破され張霸は斬殺された。また、魏の征東大将軍の曹休も、尋陽(じんよう)で呉の別動部隊の将軍を討ち破った。魏では論功行賞が行われ、それぞれ格差をつけて封爵があった。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【秋】
呉の孫権のもとに「蒼梧(そうご)で鳳凰(ほうおう)が現れた」との報告が届く。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【秋】
呉の孫権が丹楊(たんよう)・呉郡・会稽(かいけい)の3郡から民情が不穏な10県を分割し、新たに「東安郡(とうあんぐん)」を設置する。そして全琮(ぜんそう)を東安太守に任じ、山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の討伐にあたらせた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

ここで「『呉録(ごろく)』にいう」として、「東安郡の役所は富春(ふしゅん)に設置された」とある。

【10月】
魏の曹叡の息子で清河王の曹冏が薨去(こうきょ)する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【10月】
呉の陸遜(りくそん)が孫権に、現状に対応するための施策を上言。恩徳を施し刑罰を緩め、租税を減らして徴用をやめられるようにとの意見を述べる。

これを受け孫権は、担当官吏に命じて法令の条文をすべて書き写させると、それらを郎中(ろうちゅう)の褚逢(ちょほう)に命じて陸遜と諸葛瑾のところへ持っていかせ、問題があると思われる箇所を削除、または増訂させた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【12月】
魏の曹叡が、太尉(たいい)の鍾繇(しょうよう)を太傅(たいふ)に、征東大将軍の曹休を大司馬(だいしば)に、中軍大将軍の曹真を大将軍(だいしょうぐん)に、司徒(しと)の華歆(かきん)を太尉に、司空(しくう)の王朗を司徒に、鎮軍大将軍の陳羣を司空に、撫軍大将軍の司馬懿を驃騎大将軍(ひょうきだいしょうぐん)に、それぞれ任ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

司馬懿の驃騎大将軍だけは、やや引っかかる。(征東などの)四征将軍ならわかるが、驃騎や車騎といった高位の将軍にまで大を付けることがあったのかどうか? ここは単に驃騎将軍とすべきのような気もするが……。

翌年(227年)12月の『三国志』(魏書・明帝紀)には驃騎将軍の司馬懿とあった。

驃騎大将軍については『後漢書』に数多くの用例があったので将軍号として通用することがわかった。(2016/2/18追記)

【?月】
この年、呉の孫権が交州(こうしゅう)を分割し広州(こうしゅう)を設置したものの、ほどなく旧(もと)に戻した。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
この年、呉の交趾太守(こうしたいしゅ)の士燮(ししょう)が死去した。このとき90歳だった。
『三国志』(呉書・士燮伝)

「この年(226年)に亡くなったとされる人物」
韓当(かんとう)呉範(ごはん)士燮(ししょう)秦宓(しんふく)曹冏(そうけい)A ※曹叡(そうえい)の息子曹丕(そうひ)鮑勛(ほうくん)

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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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