-268年- 戊子(ぼし)
【晋】 泰始(たいし)4年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 宝鼎(ほうてい)3年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
晋(しん)の賈充(かじゅう)らが新しい律令を作り、司馬炎に上呈する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
⇒01月
晋の賈充・鄭沖(ていちゅう)・荀顗(じゅんぎ)らが新律令(泰始律令)を完成させ、司馬炎に上呈する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表
【02月】
呉(ご)の孫晧が、左右の御史大夫(ぎょしたいふ)の丁固(ていこ)と孟仁(もうじん。孟宗〈もうそう〉)を、それぞれ司徒(しと)と司空(しくう)に任ずる。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)
★『呉書』…丁固が尚書(しょうしょ)だったころに見た夢の話。
⇒02月
呉の孫晧が、丁固を司徒に、孟仁(孟宗)を司空に、それぞれ任ずる。
『正史 三国志8』の年表
【09月】
呉の孫晧が、居巣(きょそう)の東関(とうかん)へ出撃し、丁奉(ていほう)も合肥(ごうひ)まで軍勢を進める。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
⇒10月
呉の孫晧が晋の各地に侵攻し、施績(しせき。朱績〈しゅせき〉)は江夏(こうか)に、万彧(ばんいく)は襄陽(じょうよう)に、丁奉は芍陂(しゃくひ)に、それぞれ軍を進める。しかし、彼らはみな晋軍に撃退された。
『正史 三国志8』の年表
⇒?月
呉の丁奉・諸葛靚(しょかつせい)が晋の合肥を攻める。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表
【11月】
晋の司馬炎が、司馬望(しばぼう)を大司馬(だいしば)に、荀顗を太尉(たいい)に、石苞(せきほう)を司徒に、それぞれ任ずる。
『正史 三国志8』の年表
【?月】
この年、呉の孫晧は、交州刺史(こうしゅうしし)の劉俊(りゅうしゅん)と前部督(ぜんぶとく)の脩則(しゅうそく)らを遣わし、晋の交趾(こうし)に進攻させた。
しかし、晋の毛炅(もうけい)らに敗れてふたりとも戦死し、兵士は四散して合浦(ごうほ)へ逃げ帰った。
『三国志』(呉書・孫晧伝)
特記事項
この年は特になし。
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