233年(〈魏の太和7年〉→青龍元年・蜀の建興11年・呉の嘉禾2年)の主な出来事

-233年- 癸丑(きちゅう)
【魏】 (太和〈たいわ〉7年) → 青龍(せいりょう)元年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉)
【蜀】 建興(けんこう)11年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 嘉禾(かか)2年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
甲申(こうしん)の日(23日)
魏(ぎ)の郟(きょう)の摩陂(まひ)の井戸の中に青龍が現れる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)

【01月】
呉(ご)の孫権が詔(みことのり)を下す。遼東(りょうとう)の公孫淵(こうそんえん)が、宿舒(しゅくじょ)と孫綜(そんそう)を遣わしてきたことをたたえ、大赦の実施を命ずるもの。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【02月】「魏の改元」
丁酉(ていゆう)の日(6日)
魏の曹叡が摩陂に行幸し、青い龍を見る。それを受けて「太和」を「青龍」と改元した。また摩陂を龍陂(りょうひ)と改め、男子に対して2等級の爵位を与え、「連れ合いのない男女、孤児、子のない老人は、この年の税を納めなくてもよい」とした。
『三国志』(魏書・明帝紀)

ここでも「男子に対して2等級の爵位を与え……」というくだりが出てくるが、よくわからなかった。

『後漢書(ごかんじょ)』や『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注を読み、「民に爵号を下賜した」という意味がわかった。

漢では、国家に慶事もしくは凶事が起こったとき、民の男子(長男限定など、場合によって対象者は異なる)に爵位を賜与する制度があったという。当然、魏にも同じような制度があったということだった。このあたりのことについては、215年1月の記事を参照。

【03月】
甲子(こうし)の日(3日)
魏の曹叡が公卿(こうけい)に詔を下し、賢良篤行の士(才能や人格が優れ、行いが誠実な人物)をそれぞれひとりずつ推挙させる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【03月】
呉の孫権が、公孫淵の使者である宿舒と孫綜を帰国させ、その際に呉の太常(たいじょう)の張弥(ちょうび)、執金吾(しつきんご)の許晏(きょあん)、将軍の賀達(がたつ)らに兵1万をひきいて同行するよう命じ、財宝珍貨と九錫(きゅうせき)の下賜品を持たせ、海路で遼東(りょうとう)の公孫淵に授けようとした。

これに対し丞相(じょうしょう)の顧雍(こよう)以下、呉の大臣らが、こぞって孫権に思いとどまるよう諫めたが、孫権は聞き入れようとしなかった。その後、公孫淵は呉の張弥らを斬って、その首を魏に送り、兵士と食糧を奪い取った。

孫権は激怒し、自ら公孫淵の征伐に出ようとしたが、尚書僕射(しょうしょぼくや)の薛綜(せつそう)らが口を極めて諫めたので、ようやく思いとどまった。
『三国志』(呉書・呉主伝)

裴松之(はいしょうし)の考え…孫権が群臣の諫めを聞かず、公孫淵からの帰属の申し入れを信じたうえ、九錫の礼物と策命書を届けるために1万もの兵を動かしたことについて、「民への配慮を欠き、暗愚暴虐の極みである」と批判。

⇒03月
呉の孫権が、張弥と許晏らを遣わし、公孫淵に九錫を授けて燕王(えんおう)に封ずる。しかし公孫淵は呉の使者を斬り、その首を魏に送った。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【05月】
壬申(じんしん)の日(12日)
魏の曹叡が詔を下し、亡き大将軍(だいしょうぐん)の夏侯惇(かこうとん)、大司馬(だいしば)の曹仁(そうじん)、車騎将軍(しゃきしょうぐん)の程昱(ていいく)を、太祖(たいそ。曹操〈そうそう〉)の霊廟(れいびょう)の園庭に祭る。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『魏書』…このときの詔。

【05月】
戊寅(ぼいん)の日(18日)
魏の北海王(ほっかいおう)の曹蕤(そうずい)が薨去(こうきょ)する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【閏05月】
庚寅(こういん)の日(1日)
日食が起こる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【閏05月】
丁酉の日(8日)
魏の曹叡が詔を下し、諸王の娘ではない帝族の娘について、みな邑主(ゆうしゅ)と呼称させる。また郡国にも詔を下し、祠典(してん。祭の規定を著した書物)に記されていない山川を祭ることを禁じた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【06月】
魏の洛陽宮(らくようきゅう)で、蹴鞠(けまり)をするための部屋が焼ける。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【?月】
先に魏に帰順し、国境地帯を守っていた鮮卑族(せんぴぞく)の大人(たいじん。部族の有力者)の歩度根(ほどこん)と、反乱を起こした鮮卑族の大人の軻比能(かひのう)が、密かに誼(よしみ)を通ずる。

魏の幷州刺史(へいしゅうしし)の畢軌(ひっき)が曹叡に上表し、ただちに出兵して国境の外にいる軻比能を威嚇(いかく)し、国境の内にいる歩度根を鎮圧する旨を伝える。

曹叡は畢軌に詔を下し、「両者の連合を防ぐために出兵する場合は、くれぐれも国境を越えて句注(こうちゅう)に立ち寄ってはならない」と戒めた。

この詔が届いたころ、畢軌は軍を進めて陰館(いんかん)に駐屯し、将軍の蘇尚(そしょう)と董弼(とうひつ)を遣わして鮮卑を追撃させていた。

軻比能が、息子に1千騎あまりをひきいて歩度根の部落民を迎えに行かせたところ、楼煩(ろうはん)で蘇尚・董弼と出くわして戦闘になり、魏の両将が戦死した。

歩度根の部落民はこぞって反旗を翻し、国境を出、軻比能と合流して一帯に害を加えた。曹叡は驍騎将軍(ぎょうきしょうぐん)の秦朗(しんろう)に討伐を命じ、ようやく賊徒は砂漠の北方へ逃走した。
『三国志』(魏書・明帝紀)

⇒10月
鮮卑族の歩度根の部落の大人である戴胡阿狼泥(たいこあろうでい)らが、幷州に行って魏に降る。これにより、魏の秦朗は軍を引き揚げて帰還した。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』…秦朗について。

『献帝伝(けんていでん)』…秦朗の父の秦宜禄(しんぎろく)について。

『世語(せいご)』…秦朗の息子の秦秀(しんしゅう)について。

『魏略(ぎりゃく)』…孔桂(こうけい)について。

【09月】
先に魏に帰順し、安定(あんてい)の国境地帯を守っていた匈奴(きょうど)の大人の胡薄居姿職(こばくきょししょく)らが反乱を起こす。魏の司馬懿(しばい)が将軍の胡遵(こじゅん)らを遣わし、これを討ち破って降伏させた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【冬】
蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が、諸軍に兵糧を運ばせて斜谷口(やこくこう)に集め、斜谷の邸閣(食糧貯蔵庫)を整備させる。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【12月】
公孫淵が、呉の孫権の使者である張弥と許晏を斬り、その首を魏に送る。魏の曹叡は、公孫淵を大司馬に任じたうえ、楽浪公(らくろうこう)に封じた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

この件については、3月の『三国志』(呉書・呉主伝)でも触れられている。

『世語』…漢のもとの度遼将軍(どりょうしょうぐん)である范明友(はんめいゆう)の、鮮卑族の奴隷についての話。

『博物志(はくぶつし)』…都(洛陽)にいたという姓名不詳の男の話。10人分くらいの食物をむさぼり食らう者。

『傅子(ふし)』…太原(たいげん)で墓を発(あば)いて柩(ひつぎ)を壊したとき、中からひとりの生きた女性が出てきた話。

【?月】
この年、南方の蛮族の劉冑(りゅうちゅう)が蜀に対して反乱を起こす。しかし蜀の将軍の馬忠(ばちゅう)が撃破し、これを平定した。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【?月】
この年、呉の孫権が、自ら魏の合肥新城(ごうひしんじょう)に軍を進めるとともに、将軍の全琮(ぜんそう)には六安(りくあん)の討伐を命ずる。しかし、両者とも敵を降すことができないまま引き揚げることになった。
『三国志』(呉書・呉主伝)

⇒?月
この年、呉の孫権が、魏の合肥新城を攻めようとするが、満寵(まんちょう)に撃退された。
『正史 三国志8』の年表

【?月】「陳寿(ちんじゅ)の誕生」
この年、陳寿が生まれた(~297年)。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(233年)に亡くなったとされる人物」
虞翻(ぐはん)曹蕤(そうずい)曹潜(そうせん)

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