234年(魏の青龍2年・蜀の建興12年・呉の嘉禾3年)の主な出来事

-234年- 甲寅(こういん)
【魏】 青龍(せいりょう)2年 ※明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉)
【蜀】 建興(けんこう)12年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 嘉禾(かか)3年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
呉(ご)の孫権が詔(みことのり)を下す。民たちが兵役に苦しみ、五穀の実りが必ずしも芳しくないことに触れ、「税が払えない者たちに対する処分を寛(ゆる)やかにし、これ以上は厳しく取り立てないように」というもの。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【02月】
乙未(いつび)の日(?日)
太白星(たいはくせい。金星)が熒惑星(けいわくせい。火星)を犯す。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・明帝紀〈めいていぎ〉)

『正史 三国志1』(今鷹真〈いまたか・まこと〉、井波律子〈いなみ・りつこ〉訳 ちくま学芸文庫)の訳者注によると「乙未では日が合わない。あるいは己未(きび。2月4日)の誤りか」という。

【02月】
癸酉(きゆう)の日(18日)
魏(ぎ)の曹叡が詔を下す。官吏に対する刑罰の鞭打ちについて、「最近、無実の罪でありながら鞭打ちのため死に至る者が多数ある」として、「鞭打ちや杖打ちの刑罰を廃止せよ」というもの。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【02月】
蜀(しょく)の諸葛亮(しょかつりょう)が斜谷(やこく)から出撃し、初めて流馬(りゅうば。馬をかたどった、機械仕掛けで動く車。詳細は不明)を用い輸送を行う。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)

【03月】「劉協(りゅうきょう)の死」
庚寅(こういん)の日(6日)
魏の山陽公(さんようこう)の劉協(漢〈かん〉の献帝〈けんてい〉)が薨去(こうきょ)する。曹叡は白い服を着けて喪に服し、節(せつ。使者のしるし)を持たせた使者を遣わして葬儀を執り行わせた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

⇒03月
庚寅の日
魏の山陽公である劉協が薨去する。帝位を譲ってから14年、このとき54歳だった。劉協は孝献皇帝(こうけんこうてい)と諡(おくりな)された。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

【03月】
己酉(きゆう)の日(25日)
魏の曹叡が大赦を行う。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【04月】
魏で疫病が大流行する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【04月】
魏の崇華殿(すうかでん)が炎上する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【04月】
丙寅(へいいん)の日(12日)
魏の曹叡が担当官吏に詔を下し、太牢(たいろう。牛・羊・豕〈イノコ〉)の犠牲(いけにえ)を捧げて文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)の霊廟(れいびょう)に祭り、山陽公(劉協)の死を報告させる。また、山陽公に漢孝献皇帝(かんのこうけんこうてい)と諡し、漢の礼式によって葬るよう命じた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『献帝伝(けんていでん)』…明帝(曹叡)が山陽公の薨去にあたって執り行った儀式や、それらに臨んだ姿勢についての話。

【04月】
蜀の諸葛亮が2月に斜谷から出撃したあと渭南(いなん)に駐屯する。魏の曹叡は司馬懿(しばい)に諸軍の統率を命じ、蜀軍と対陣させた。このとき曹叡は司馬懿に詔を下し、「ひたすら砦を固め、守ることによって相手の矛先をくじくように」と指示した。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』…司馬懿と諸葛亮の使者を介したやり取り、辛毗(しんぴ)の活躍について。

⇒04月
蜀の諸葛亮が10万の兵をひきい、斜谷から郿(び)・五丈原(ごじょうげん)に出て魏の司馬懿と対峙する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【05月】
太白星が昼間に現れる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【05月】
呉の孫権が居巣湖(きょそうこ)の入り口に攻め込み、魏の合肥新城(ごうひしんじょう)に向かって進軍する。また孫権は、陸議(りくぎ。陸遜〈りくそん〉)と孫韶(そんしょう)らにそれぞれ1万以上の軍勢を統率させ、淮水(わいすい)および沔河(べんが)に進ませた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

⇒05月
呉の孫権が、陸遜と諸葛瑾(しょかつきん)らを遣わして江夏(こうか)の沔口(べんこう。夏口〈かこう〉)に軍営を置かせ、孫韶と張承(ちょうしょう)らには広陵(こうりょう)から淮陰(わいいん)まで軍を進めさせ、自ら大軍を指揮して魏の合肥新城を包囲した。

このころ蜀の宰相である諸葛亮が扶風(ふふう)の武功(ぶこう)まで軍を進めていたため、孫権は魏の曹叡が遠くまで軍を動かせないと考えていた。ところが、曹叡は諸葛亮と対峙していた司馬懿に増援を送ったあと、自ら大軍をひきいて東征に向かった。この魏軍が寿春(じゅしゅん)に着かないうちに孫権は軍を引き揚げ、孫韶も淮陰への遠征を中止した。
『三国志』(呉書・呉主伝)

⇒06月
魏の征東将軍(せいとうしょうぐん)の満寵(まんちょう)が、呉の侵攻を防ぐため軍を進める。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【07月】
壬寅(じんいん)の日(19日)
魏の曹叡が自らお召し船に乗って東征に赴く。呉の孫権は魏の合肥新城を攻めたものの、張穎(ちょうえい)らの抵抗に遭ったため逃走。陸議(陸遜)や孫韶らも撤退した。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【07月】
魏の曹叡が寿春まで軍を進め、諸将の勲功を調査するよう命ずる。この結果に応じ、それぞれ格差をつけて封爵や恩賞の沙汰が行われた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【08月】
己未の日(7日)
魏の曹叡が六軍(りくぐん)の兵を供応するため使者に節を持たせて遣わし、合肥や寿春の諸軍に酒や食べ物を贈り、その労苦をねぎらう。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【08月】「山陽公家のその後」
壬申(じんしん)の日(20日)
魏の曹叡が山陽公(劉協)を山陽国に埋葬し、その陵を禅陵(ぜんりょう)と名付けたうえ墓守りのための村落を設置する。埋葬の当日、明帝(曹叡)は錫衰(しさい)を着、弁絰(べんてつ)をつけ、山陽公のために慟哭(どうこく)した。

また、山陽公の嫡孫で桂氏郷公(けいしきょうこう)の劉康(りゅうこう)を後継者として立て、新たに山陽公に封じた。
『三国志』(魏書・明帝紀)

『正史 三国志1』の訳者注によると「錫衰は帝王が三公六卿(さんこうりくけい)のために服喪する際の喪服で、滑らかで軽い麻で作られる。弁絰は雀(スズメ)の頭の形をした冠で、喪のときにかぶる。白色でひもが巻きつけてある」という。

⇒08月
壬申の日
魏の山陽公の劉協が、漢の天子(てんし)の儀礼によって禅陵に葬られる。その園邑(えんゆう)には令(れい)と丞(じょう)が設置された。

劉協の太子は早くに亡くなっており、孫の劉康が位を継いだ。劉康は51年後、晋(しん)の太康(たいこう)6(285)年に薨去した。劉康の息子の劉瑾(りゅうきん)が位を継いだ。劉瑾は4年後、太康10(289)年に薨去した。

劉瑾の息子の劉秋(りゅうしゅう)が位を継いだ。劉秋は20年後、永嘉(えいか)年間(307~313年)に胡賊(こぞく)によって殺害され国も廃された。
『後漢書』(献帝紀)

ここで李賢注(りけんちゅう)は『続漢書(しょくかんじょ)』(礼儀志〈れいぎし〉)を引き、天子の葬儀についてのしきたりや手順を説明している。

同じく李賢注によると「『帝王紀(ていおうき)』に『禅陵は濁鹿城(だくろくじょう)の西北10里にあり、(当時でいう)今の懐州(かいしゅう)脩武県(しゅうぶけん)の北25里にある。陵の高さは2丈(じょう)であり、周囲は200歩(ぽ)である』とある」という。

同じく李賢注によると「劉澄之(りゅうちょうし)の『地記(ちき)』に『(禅陵は)漢が魏に禅譲したので、それに因(ちな)んで(禅という)名にしたのである』という」とある。

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると「劉澄之は劉宋(りゅうそう。南朝〈なんちょう〉の宋)の皇族で、武帝(ぶてい)の族弟である劉遵考(りゅうじゅんこう)の息子。『永初山川古今記(えいしょさんせんここんき)』などを著した」という。

同じく『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「『地記』は全252巻。梁(りょう)の任昉(じんほう)の書を陸澄之(りくちょうし)が増補したもの。李賢注は劉澄之の書としているが、陸澄之の誤りであろう」という。

【08月】
辛巳(しんし)の日(29日)
魏の曹叡が許昌宮(きょしょうきゅう)に還幸する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【08月】「諸葛亮・魏延(ぎえん)の死」
魏の司馬懿と対峙していた蜀の諸葛亮が陣中で死去したため、蜀軍が撤退する。
『三国志』(魏書・明帝紀)

⇒08月
蜀の諸葛亮が渭浜(いひん)で死去する。蜀の征西大将軍(せいせいだいしょうぐん)の魏延と丞相長史(じょうしょうちょうし)の楊儀(ようぎ)が指揮権を巡って争い、兵を挙げて攻撃しあい魏延が敗走する。その後、楊儀は魏延の首を斬り、成都(せいと)に帰還した。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【08月】
呉の孫権が諸葛恪(しょかつかく)を丹楊太守(たんようのたいしゅ)に任じ、山越(さんえつ。江南〈こうなん〉に住んでいた異民族)の討伐を命ずる。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【09月】
壬午(じんご)の日(1日)、朔(さく)
呉で霜が降り、穀物に損害を与える。
『三国志』(呉書・呉主伝)

ここは干支(かんし)を補っておく。

【10月】
乙丑(いっちゅう)の日(14日)
月が塡星(ちんせい。鎮星とも。土星)と軒轅(けんえん。しし座)を犯す。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【10月】
戊寅(ぼいん)の日(27日)
月が太白星を犯す。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【11月】
魏の洛陽(らくよう)で地震が起こる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【11月】
呉の太常(たいじょう)の潘濬(はんしゅん)が、武陵(ぶりょう)の異民族平定の任務を終え武昌(ぶしょう)に帰還する。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【12月】
魏の曹叡が担当官吏に詔を下し「死刑に該当する罪を減らすように」と命ずる。
『三国志』(魏書・明帝紀)

【?月】
この年、蜀の劉禅が大赦を行う。また、左将軍(さしょうぐん)の呉壱(ごいつ)を車騎将軍(しゃきしょうぐん)・仮節(かせつ)・漢中都督(かんちゅうのととく)に、丞相留府長史(じょうしょうりゅうふちょうし)の蔣琬(しょうえん)を尚書令(しょうしょれい)に、それぞれ任じて国事を統括させた。
『三国志』(蜀書・後主伝)

【?月】
この年、呉の孫権が詔を下し、曲阿(きょくあ)を雲陽(うんよう)と、丹徒(たんと)を武進(ぶしん)と、それぞれ改めた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
この年、呉の廬陵(ろりょう)の李桓(りかん)と羅厲(られい)らが反乱を起こした。
『三国志』(呉書・呉主伝)

「この年(234年)に亡くなったとされる人物」
魏延(ぎえん)諸葛亮(しょかつりょう)孫奐(そんかん)孫泰(そんたい)潘璋(はんしょう)李厳(りげん)李邈(りばく)劉琰(りゅうえん)

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正史年表 230年代
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今日も三国志日和 – 史実と創作からみる三国志の世界 –

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