194年(漢の興平元年)の主な出来事

-194年- 甲戌(こうじゅつ)
【漢】 興平(こうへい)元年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

月別および季節別の主な出来事

【01月】 「漢(かん)の改元」
辛酉(しんゆう)の日(13日)
献帝が大赦を行い、「初平」を「興平」と改元する。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

【01月】
甲子(こうし)の日(16日)
献帝が元服する。
『後漢書』(献帝紀)

【02月】
壬午(じんご)の日(5日)
献帝が、母である王氏(おうし)を追尊して「霊懐皇后(れいかいこうごう)」とする。

甲申(こうしん)の日(7日)
献帝が霊懐皇后を「文昭陵(ぶんしょうりょう)」に改葬する。
『後漢書』(献帝紀)

【02月】
丁亥(ていがい)の日(10日)
献帝が籍田儀礼(せきでんぎれい)を執り行う。
『後漢書』(献帝紀)

訳者補注(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉氏)によると、「籍田は『藉田』と同じ。藉田儀礼は、皇帝が正月に初めての耕作の儀礼として執り行う。具体的には、先農に供え物をしたあと、天子(てんし)、三公、九卿(きゅうけい)、諸侯、百官の順に鍬(くわ)入れを行い、力田(りきでん)が穀物を植え、土をかぶせ終え完了である」という。

「力田」については、先の181年7月の記事に訳者補注(渡邉義浩氏)があった。それによると「力田は郷官(きょうかん)のひとつ。よく農業に励む者が任命され、社会の模範として顕彰された。後漢(ごかん)では詔(みことのり)による恩賜や租税免除などの恩恵があった」という。

【?月】
劉備(りゅうび)が陶謙(とうけん)のもとに身を寄せる。陶謙は献帝に上表し、劉備を「豫州刺史(よしゅうのしし)」に任ずるよう推薦した。
『参考年表』

【春】
曹操(そうそう)が徐州(じょしゅう)から帰還する。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

【03月】
韓遂(かんすい)と馬騰(ばとう)が、長平観(ちょうへいかん)で郭シ(かくし。氵+巳)や樊稠(はんちゅう)らと戦って大敗。この戦いで左中郎将(さちゅうろうしょう)の劉範(りゅうはん)と前の益州刺史(えきしゅうしし)である种劭(ちゅうしょう)が戦死した。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると、「『前書音義(ぜんしょおんぎ)』(『漢書〈かんじょ〉』宣帝紀〈せんていぎ〉の顔師古注〈がんしこちゅう〉)に、『長平は坂の名であり、その坂の上に長平観がある。池陽宮(ちようきゅう)の南、長安(ちょうあん)から50里離れた所にある。唐(とう)のケイ水(けいすい。氵+巠)の南にある原眭城(げんきじょう?)がこれである』とある」という。

また、「袁宏(えんこう)の『後漢紀(ごかんき)』(献帝紀)に、『このとき馬騰は李傕(りかく)らが専横して朝政を乱していたため、益州刺史の劉焉(りゅうえん)が宗室出身の大臣であることから、使者を遣わして味方に招き、ともに李傕を誅殺しようと提案した。劉焉は息子の劉範を遣わし、兵をひきいて馬騰に付かせた。もとの涼州刺史(りょうしゅうしし)の种劭は太常(たいじょう)の种払(ちゅうふつ)の息子である。种払が李傕に殺害されていたため、种劭は仇を報じようとして、ついにここで戦った』とある」ともいう。

「种劭」について、本紀には「前の益州刺史」とあり、李賢注に引く『後漢紀』には「もとの涼州刺史」とある。どちらも就任経験があるのかもしれないが、よくわからなかった。

訳者補注(渡邉義浩氏)によると、「劉範は江夏郡(こうかぐん)竟陵(きょうりょう)の人。左中郎将。『後漢書』(董卓伝〈とうたくでん〉)のみ『右中郎将(ゆうちゅうろうしょう)』とする。益州牧(えきしゅうぼく)の劉焉の息子である」という。

【夏】
曹操が荀イク(じゅんいく)と程イク(ていいく。日+立)に鄄城(けんじょう)を守らせ、再び陶謙の討伐に向かう。曹操は徐州の5城を陥し東海(とうかい)まで進んだ。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【夏】
曹操が東海からの帰路、郯(たん)の東で劉備と陶謙配下の曹豹(そうほう)を撃破する。加えて襄賁(じょうほん)も攻略。曹操は通過した地域で多くの人々を虐殺した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
張邈(ちょうばく)が陳宮(ちんきゅう)とともに曹操に背き、兗州(えんしゅう)に呂布(りょふ)を迎え入れる。 兗州の郡県はこれに呼応したが、荀イクと程イクは鄄城を固守し、范(はん)と東阿(とうあ)の両県も守り抜いた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
曹操が再び陶謙征伐に出向いたとき、張邈の弟の張超(ちょうちょう)は、曹操配下の将軍(しょうぐん)の陳宮、従事中郎(じゅうじちゅうろう)の許シ(きょし。氵+巳)、同じく王楷(おうかい)らと結託して背いた。
『三国志』(魏書・呂布伝)

【?月】
曹操が軍をひきいて徐州から戻る。呂布は鄄城を攻め落とすことができず、西に向かい濮陽(ぼくよう)に駐屯した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【06月】 「雍州(ようしゅう)の設置」
丙子(へいし)の日(1日)
献帝が涼州の河西(かせい)4郡を割き、新たに「雍州」を設置する。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「河西4郡とは、金城(きんじょう)・酒泉(しゅせん)・敦煌(とんこう)・張掖(ちょうえき)の4郡である」という。

【06月】
丁丑(ていちゅう)の日(2日)
地震が起こる。
『後漢書』(献帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【06月】
戊寅(ぼいん)の日(3日)
再び地震が起こる。
『後漢書』(献帝紀)

ここでも具体的な場所についての記述はなかった。

【06月】
乙巳(いつし)の日(30日)、晦(かい)
日食が起こる。献帝は正殿を避け、兵を収めて政事を行わないことが5日間に及んだ。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
曹操と呂布が100余日も対峙した末、蝗(イナゴ)の大発生により両者とも軍を引き揚げる。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒06月
大規模な蝗の被害が出る。
『後漢書』(献帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【07月】
壬子(じんし)の日(7日)
献帝が太尉(たいい)の朱儁(しゅしゅん)を罷免する。
『後漢書』(献帝紀)

【07月】
戊午(ぼご)の日(13日)
献帝が太常(たいじょう)の楊彪(ようひゅう)を「太尉」に任じたうえ、「録尚書事(ろくしょうしょじ)」とする。
『後漢書』(献帝紀)

【07月】
三輔(さんぽ。長安を中心とする地域)で大日照りがあり、4月からこの7月まで続く。献帝は正殿を避けて雨を乞い、使者を遣わし囚人の調査を命じ、軽罪の者を赦した。
『後漢書』(献帝紀)

【08月】
馮翊郡(ひょうよくぐん)の羌族(きょうぞく)が反乱を起こし、属県に侵攻したものの、郭シ(氵+巳)と樊稠がこれを討ち破る。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
桑が再びを実をつけたため、人々はようやく食べることができるようになる。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
献帝が司徒(しと)の淳于嘉(じゅんうか)を罷免する。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
曹操が鄄城に帰還する。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
呂布が乗氏(じょうし)に到着したものの、ここで李進(りしん)に撃破される。呂布は東に向かい山陽(さんよう)に駐屯した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【10月】
曹操が東阿に赴く。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【10月】
長安の市場の門が自然に壊れる。
『後漢書』(献帝紀)

【10月】
献帝が衛尉(えいい)の趙温(ちょうおん)を「司徒」に任じたうえ、「録尚書事」とする。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】 「劉焉の死」
益州牧の劉焉が死去し、息子の劉璋(りゅうしょう)が跡を継ぐ。
『参考年表』

【12月】
献帝が安定(あんてい)・扶風(ふふう)の両郡から土地を割き、「新平郡(しんぺいぐん)」を設置する。
『後漢書』(献帝紀)

『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「袁山松(えんさんしょう)の『後漢書』に、『献帝が安定郡の鶉觚県(じゅんこけん)および右扶風(ゆうふふう)の漆県(しつけん)を分割して新平郡を設置した』とある」という。

【?月】
この年、穀物が1斛(こく)50余万銭に高騰し、人間同士が食い合うほどの惨状を呈する。そのため軍吏や兵士の新たな募集が取りやめられた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒?月
この年、穀物は1斛50万銭に高騰し、豆や麦でも1斛20万銭になった。人々は互いに喰らい合い、その白骨が野ざらしになった。

献帝は侍御史(じぎょし)の侯汶(こうぶん)に、太倉(たいそう)の米豆を供出し、飢民のために糜粥(おかゆ)を作るよう命じたが、数日経っても死者が減らなかった。

献帝は賜与に不正があると疑い、目の前で量をはかって糜粥を作らせ、やはり命令どおりに賜与が行われていないことを知った。

そこで侍中(じちゅう)の劉艾(りゅうがい)を遣わし、担当者を叱責させた。このため尚書令(しょうしょれい)以下はみな宮門に至って謝罪し、侯汶を捕縛して実態を調査するよう上奏した。

献帝は詔を下し、侯汶を処刑するのは忍びないとして杖打ち50回を命じた。これ以降、適切に賜与が行われるようになり多くの者が救われた。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「袁宏の『後漢紀』(献帝紀)に、『このとき(献帝は)侍中の劉艾に勅令を与え、米豆5升(しょう)を用意して御前で粥を作らせると、大型の飯盛碗3杯を満たすことができた。そこで(献帝は)尚書に詔を下し、米豆5升から粥が大型の飯盛碗で3杯も作れるのに、人々が飢えているのはなぜだ、とした』とある」という。

【?月】 「陶謙の死」
この年、陶謙が死去し、劉備が陶謙に代わった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
この年、孫策(そんさく)が袁術(えんじゅつ)のもとに身を寄せる。袁術は、父の孫堅(そんけん)の跡を継いで自分の配下に加わろうという孫策の行為を「誠に奇特なことだ」とし、もとの孫堅の部下を孫策に返してやった。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫策伝)

『三国志』(魏書・武帝紀)には「昨年(193年)に、孫策が袁術の指示を受けて長江(ちょうこう)を渡った」という記事があり、この「孫策伝」の記事とは時期に揺れあるようだ。

【?月】
この年、揚州刺史(ようしゅうしし)の劉繇(りゅうよう)と袁術配下の部将の孫策が曲阿県(きょくあけん)で戦い劉繇が大敗する。これにより孫策は江東(こうとう)を拠点とした。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると、「『三国志』(呉書・孫策伝)に『孫策は劉繇を討ち破ったのち、とうとう兵に長江を渡らせ、会稽郡(かいけいぐん)を拠点とし、自ら会稽太守(かいけいたいしゅ)を兼任した』とある」という。

【?月】
この年、太傅(たいふ)の馬日磾(ばじつてい)が寿春県(じゅしゅんけん)で死去した。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】
この年、孫策が(豫章郡〈よしょうぐん〉から廬陵県〈ろりょうけん〉を)分割して「廬陵郡」を設置した。
『後漢書』(郡国志)の劉昭注

【?月】
この年ごろ、張魯(ちょうろ)が漢中(かんちゅう)に「五斗米道(ごとべいどう)」の国を建てた。
『三国志全人名事典』(関連略年表)

「この年(194年)に亡くなったとされる人物」
劉焉(りゅうえん)・陶謙(とうけん)。
『正史三國志群雄銘銘傳(増補版)』(『三国志』年表)

「この年(194年)に生まれたとされる人物」
朱拠(しゅきょ)。
『正史三國志群雄銘銘傳(増補版)』(『三国志』年表)

スポンサーリンク

おすすめ記事(広告を含む)

【この記事をシェアする】

【更新情報をフォローする】