220年(〈漢の建安25年〉→延康元年・魏の黄初元年)の主な出来事 前半

-220年- 庚子(こうし)
【漢】 (建安〈けんあん〉25年) → 延康(えんこう)元年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) → 魏に禅譲し滅亡
【魏】 黄初(こうしょ)元年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)

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月別および季節別の主な出来事

(注)この年は記事が多かったため、「前半」と「後半」に分けました。

【01月】
曹操(そうそう)が洛陽(らくよう)に帰還する。このころ孫権(そんけん)から、劉備(りゅうび)配下の関羽(かんう)の首が届けられた。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

【01月】「曹操の崩御(ほうぎょ)」
庚子の日(23日)
曹操が洛陽で崩御する。このとき66歳だった。

曹操は遺令で、「天下は依然として安定をみていない」とし、「このため(自分の葬儀は)古式に従うわけにはいかない」とした。

「埋葬が終われば、みな服喪(ふくそう)を去れ。兵を統率している者は、その部署を離れることを許さぬ。官吏はそれぞれ自己の職に努めよ」と述べたうえ、「遺体を包むには平服を用い、金銀や珍宝を副葬しないように」と命じたとある。

また、諡(おくりな)を武王(ぶおう)という、ともある。
『三国志』(魏書・武帝紀)

『世語(せいご)』…濯龍祠(たくりょうし)の神木と建始殿(けんしでん)の話。

『曹瞞伝(そうまんでん)』…工人の蘇越(そえつ)と、梨の木を移植した話。

⇒01月
庚子の日
魏王(ぎおう)の曹操が薨去(こうきょ)し、息子の曹丕が位を継ぐ。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

李賢注(りけんちゅう)によると「『三国志』(魏書・武帝紀)に『曹操は字(あざな)を孟徳(もうとく)といい、薨じたときは66歳であった』とある」という。

同じく李賢注によると「『三国志』(魏書・文帝紀〈ぶんていぎ〉)に『曹丕は字を子桓(しかん)といい、曹操の太子である』とある」という。

【02月】
丁未(ていび)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『後漢書』(献帝紀)

【02月】「魏王曹丕」
曹操の息子の曹丕が位を継ぎ、丞相(じょうしょう)・魏王となる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

袁宏(えんこう)の『漢紀(かんき。後漢紀〈ごかんき〉)』…献帝の詔(みことのり)。「使持節(しじせつ)・御史大夫(ぎょしたいふ)の華歆(かきん)に辞令の詔を奉じさせ、曹丕に丞相の印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)と魏王の璽紱(じふつ。王印とその紐)を授けて冀州牧(きしゅうぼく)を担当させる」というもの。

【02月】
曹丕が、曹操の后(きさき)だった卞氏(べんし)に、王太后の尊称を奉る。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【02月】「漢(かん)の改元」
献帝が、「建安」を「延康」と改元する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

⇒03月
献帝が、「建安」を「延康」と改元する。
『後漢書』(献帝紀)

【02月】
庚戌(こうじゅつ)の日(4日)
曹丕が布令を出す。「関所と津(わたしば)は旅の商人を通行させるためのものであり、池と御苑(ぎょえん)は災害を防ぐものであるのに、禁令を設けて重い税を課すのは、民に利便を与えることにならない」とし、「池に簗(やな)を張ることを禁ずる法令を廃止したうえ、関所と津の税を軽減し、すべて10分の1に戻すように」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏書』

【02月】
辛亥(しんがい)の日(5日)
曹丕が、諸侯王や将相以下、大将までの官にある者たちに、1万斛(ごく)の粟と1千匹の絹を授け、それぞれに等級をつけて金銀を賜与する。

また、使者を遣わして郡国を巡行させ、道理に反し、大きな顔をして人を踏みつけにしたり、暴虐を働く者があれば、その罪を弾劾するよう命じた。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『魏書』

【02月】
壬戌(じんじゅつ)の日(16日)
曹丕が、太中大夫(たいちゅうたいふ)の賈詡(かく)を太尉(たいい)に、御史大夫の華歆を相国(しょうこく)に、大理(だいり)の王朗(おうろう)を御史大夫に、それぞれ任ずる。さらに散騎常侍(さんきじょうじ)と侍郎(じろう。散騎侍郎か?)を4人ずつ配置する。

また、官職に就いている宦官(かんがん)は、諸官署の令(れい)以上の位に昇ることを許さないものとし、金製の札を作ってこの布令を記したうえ、それを文書保管庫に納めさせた。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【02月】
丁卯(ていぼう)の日(21日)
曹丕が、曹操を高陵(こうりょう)に葬る。
『三国志』(魏書・武帝紀)

ここで「『魏書』にいう」として、「曹操は、軍を指揮すること30余年。その間、手から書物を離さず、昼は軍事の策略を考え、夜は経書やその注釈に思索を向けた。高所に登れば必ず詩を賦(ふ)し、新しい詩ができ上がると、それを管絃(かんげん)に乗せ、これらはすべて歌詞になった」

「人並み外れた腕力を持ち、自ら飛ぶ鳥を射たり、猛獣を捕らえたりもした。南皮(なんぴ)においては、1日で63羽の雉(キジ)を射たこともあった。宮殿を造営したり、器具類を製作する場合、すべてにわたって計画案を作らせたが、みな十分に目的に合ったものだった」

「本性は倹約家で、華美を好まず、後宮の衣服にも錦や刺繍(ししゅう)を用いず、そば近く侍る者の履物も一色だった。帷帳や屏風(ついたて)も壊れれば補修し、蒲団(ふとん)は温かければよく、縁飾りなどを付けなかった」

「城を攻め、邑(まち)を陥したとき、美麗な物を手に入れても、すべて戦功を立てた者に与えた。恩賞を与えるべき功労に対しては千金も惜しまず、功労もないのに恩賞を期待しても、わずかの物も与えなかった。四方からの献上品は臣下たちと分け合った」

「死者を送る際のしきたりや、かたびらの数について、繁雑で役に立たず、俗世間ではしきたり以上のことをしていると、常に考えていた。そのため、あらかじめ自分が亡くなったときの衣服を決めておき、4つの箱を用いるだけとしたのである」などと、生前の曹操の特長を列挙している。

また「『傅子(ふし)』にいう」として、「曹操は、嫁入りや嫁取りの際の豪奢僭上(ごうしゃせんじょう)ぶりを哀れに思い、娘を嫁がせるときには、すべて黒い帳(とばり)を用い、侍女についても10人以上は付けなかった」とある。

『博物志(はくぶつし)』…曹操の草書・音楽・囲碁の腕前や、養性(ようせい)の法を好んだという話。

『曹瞞伝』…曹操は軽佻浮薄(けいちょうふはく)な人柄で、威厳がなかったという話。この中には、『三国志演義』(第17回)および吉川『三国志』(第69話)の元ネタになっていると思われる、「麦畑」での一件に加え、同じく『三国志演義』(第17回)および吉川『三国志』(第68話)の元ネタになっていると思われる、「小さな升(ます)」の一件も含まれている。

【03月】
譙(しょう)に黄龍が現れる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【03月】
己卯(きぼう)の日(3日)
曹丕が、前将軍(ぜんしょうぐん)の夏侯惇(かこうとん)を大将軍(だいしょうぐん)に任ずる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【03月】
濊貊(わいばく)と扶余(ふよ)の単于(ぜんう)および焉耆(えんき)と于闐(うてん。ホータン)の王が、それぞれ使者を遣わして朝貢する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

朝貢先が漢なのか、魏なのか、よくわからなかった。この時点では、魏に朝貢してきたと解釈してもいいのか?

【03月】
丙戌(へいじゅつ)の日(10日)
曹丕が史官に、「重(ちょう)・黎(れい)・羲(ぎ)・和(か)(これらは、いずれも古代の史官)の担当していた職務をつかさどり、大いなる天の命令に慎んで従い、日月星辰(じつげつせいしん)を数え写して、天の定める時(四季)を奉ずること」を命ずる。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『魏書』

ここで「臣(わたくし)裴松之が調べたところでは」とあり、「『魏書』にこの記事がありながら、その官職の存在を聞かない」と指摘している。

【03月】
丁亥(ていがい)の日(11日)
曹丕が布令を出す。「もとの尚書僕射(しょうしょぼくや)の毛玠(もうかい)、奉常(ほうじょう)の王脩(おうしゅう)と涼茂(りょうぼう)、郎中令(ろうちゅうれい)の袁渙(えんかん)、少府(しょうふ)の謝奐(しゃかん)と万潜(ばんせん)、中尉(ちゅうい)の徐奕(じょえき)と国淵(こくえん)らは、みな忠直の士として朝廷におり、仁愛と道義を旨としていたが、いずれも早くに世を去った。しかしその子孫は衰微しており、惻々(そくそく)として哀れを覚える。彼らの息子を、みな郎中(ろうちゅう)に任じよ」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『魏書』

【04月】
丁巳(ていし)の日(12日)
曹丕のもとに、「饒安県(じょうあんけん)で白い雉が現れた」との報告が届く。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「『魏書』にいう」として、「曹丕は、饒安県に田租を賜与し、饒安県が属する勃海郡(ぼっかいぐん)の100戸ごとに牛と酒を与え、3日の間、集まって酒を飲むことを許した」ともある。

【04月】「夏侯惇の死」
庚午(こうご)の日(25日)
曹丕配下の大将軍の夏侯惇が死去する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「『魏書』にいう」として、「曹丕は、白の喪服を着けて鄴(ぎょう)の東の城門に赴き、夏侯惇の柩(ひつぎ)を見送り、哀悼の意を示した」ともある。

これに対し「孫盛(そんせい)はいう」として、「礼においては宗廟(そうびょう)の門外で、同姓の親族に対する哭礼(こくれい。大声を上げて泣く礼)を行う。城門において哭礼を行ったのは、その場所を間違えている」と指摘している。

【05月】
戊寅(ぼいん)の日(3日)
献帝が曹丕に、もとの太尉の曹嵩(そうすう)を追尊して太王(たいおう)と称し、その夫人であった丁氏(ていし)を王太后と称するよう命ずる。また、曹丕の息子の曹叡(そうえい)を武徳侯(ぶとくこう)に封じた。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「『魏略(ぎりゃく)』にいう」として、「侍中(じちゅう)の鄭称(ていしょう)を曹叡の傅(ふ。守り役)とした」ともある。

⇒?月
曹叡は、15歳のとき武徳侯に封ぜられた。
『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)

【05月】
馮翊(ひょうよく)の山族の鄭甘(ていかん)と王照(おうしょう)が、手下を引き連れて曹丕に降る。曹丕はふたりを列侯(れっこう)に封じた。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【05月】
酒泉(しゅせん)の黄華(こうか)と張掖(ちょうえき)の張進(ちょうしん)らが、それぞれ太守(たいしゅ)を捕らえて反乱を起こす。

曹丕配下の金城太守(きんじょうたいしゅ)の蘇則(そそく)が張進を討伐し、これを斬った。黄華のほうは降伏した。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【06月】
辛亥(しんがい)の日(7日)
曹丕が、鄴の東の郊外で軍の観閲を行う。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【06月】
庚午(こうご)の日(26日)
曹丕が南方征討に出発する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

『魏略』…度支中郎将(たくしちゅうろうしょう)の霍性(かくせい)の上書による諫言。

特記事項

(注)この年は記事が多かったため、「前半」と「後半」に分けました。

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