220年(〈漢の建安25年〉→延康元年・魏の黄初元年)の主な出来事 後半

-220年- 庚子(こうし)
【漢】 (建安〈けんあん〉25年) → 延康(えんこう)元年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉) → 魏に禅譲し滅亡
【魏】 黄初(こうしょ)元年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)

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月別および季節別の主な出来事

(注)この年は記事が多かったため、「前半」と「後半」に分けました。

【07月】
庚辰(こうしん)の日(6日)
曹丕が布令を出す。軒轅(けんえん。黄帝〈こうてい〉)と放勛(ほうくん。堯〈ぎょう〉)の時代の例を挙げ、「百官有司(担当官吏)は自己の職務に努め、忠言を尽くすように」というもの。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉)

【07月】
孫権(そんけん)が、曹丕のもとに使者を遣わし、献上の品々を届ける。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【07月】
劉備(りゅうび)配下の孟達(もうたつ)が、軍勢を引き連れて曹丕に降る。
『三国志』(魏書・文帝紀)

『魏略(ぎりゃく)』によると、「曹丕は孟達を列侯(れっこう)に取り立て、そのまま新城太守(しんじょうたいしゅ)を担当させた」とある。

『後漢書(ごかんじょ)』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「『魏氏春秋(ぎししゅんじゅう)』に『建安25(220)年、(曹丕が)南郡(なんぐん)の巫県(ふけん)・秭帰(しき)・夷陵(いりょう)・臨沮(りんしょ)ならびに房陵(ぼうりょう)・上庸(じょうよう)・西城(せいじょう)の7県を分けて、新城郡を設置した』とある」という。

⇒07月
劉備配下の孟達が曹丕に降り、曹丕は、房陵・上庸・西城の3県を手に入れる。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【07月】
武都(ぶと)の氐族(ていぞく)の王である楊僕(ようぼく)が、族人らを引き連れて曹丕に服属し、漢陽郡(かんようぐん)に移住する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【07月】
甲午(こうご)の日(20日)
曹丕が、軍をひきいて譙(しょう)に到着する。曹丕は、譙の東に全軍の兵士と県の長老や住民たちを集め、大供宴を催した。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「『魏書』にいう」として、「曹丕は、歌舞や雑技を用意して人々を楽しませ、布令を下して述べた」とあり、「譙は覇王を生んだ国であり、天子(てんし)たるべき人物が出現した土地である。よって譙の租税を2年間免除する」としたとある。

また、このくだりで「孫盛(そんせい)はいう」として、父(曹操〈そうそう〉)の喪中であることを軽視したような、曹丕の行いを非難している。

【07月】
丙申(へいしん)の日(22日)
曹丕が譙陵に参拝する。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏書』

【08月】
曹丕のもとに、「石邑県(せきゆうけん)で鳳凰(ほうおう)が群れ集った」との報告が届く。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【秋】
曹丕の治下にあった、南陽郡(なんようぐん)の陰(いん)・酇(さん)・筑陽(ちくよう)・山都(さんと)・中廬(ちゅうろ)の5県の住民合わせて5千戸が、孫権に帰属する。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

【10月】
癸卯(きぼう)の日(1日)
曹丕が布令を出す。「諸将の征伐に従軍して戦死した士卒には、まだ遺骸を収容できていない者がいる」として、「郡国に申し渡し、槥櫝(ひつぎ)を給付して遺骸を納め、家に送り届けたうえ、お上で祭祀を執り行うように」というもの。

ここで裴松之が、『漢書(かんじょ)』および応劭(おうしょう)の注などを挙げ、槥櫝についての説明を加えている。

丙午(へいご)の日(4日)
曹丕が、曲蠡(きょくり)まで軍を進める。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【10月】
曹丕配下の左中郎将(さちゅうろうしょう)の李伏(りふく)が上書し、予言書の記述や多くの瑞兆が現れていることを挙げ、曹丕の徳をたたえる。

これに対し曹丕は、李伏の上書を外部に示すよう命じたうえ、「これらの瑞兆(ずいちょう)は自分が該当するものではなく、先王(曹操)の至高の徳が、神に通じたものであろう」とした。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝(けんていでん)』

【10月】
曹丕配下の侍中(じちゅう)の劉廙(りゅうい)・辛毗(しんぴ)・劉曄(りゅうよう)、尚書令(しょうしょれい)の桓階(かんかい)、尚書の陳矯(ちんきょう)・陳羣(ちんぐん)、給事黄門侍郎(きゅうじこうもんじろう)の王毖(おうひ)・董遇(とうぐう)らが曹丕に言上する。先の李伏の上書を拝読したうえで、同じく曹丕の徳をたたえたもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
辛亥(しんがい)の日(9日)
曹丕配下の太史丞(たいしじょう)の許芝(きょし)が、魏が漢に交代する旨を書き並べ、曹丕に予言書を示して意見を述べる。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

このくだりの中で、「7月の戊寅(ぼいん)の日(4日)に黄龍が出現しました」というものがあったが、この出所がわからなかった。

このほかにも「建安10(205)年、まず彗星(すいせい)が紫微(しび。天帝の宮殿にあたる星座)を掃除し、建安23(218)年、再び太微(たいび。天帝の朝廷にあたる星座)を掃除いたしました。新しい天子の気が東南に現れて以来、同年(218年)には白い虹が日を貫き、月が熒惑(けいわく。火星)を犯し、近年では己亥(きがい)の日(建安21〈216〉年5月1日)壬子(じんし)の日(建安24〈219〉年2月30日)、丙午(へいご)の日(?日)に日食がありましたが、すべて水が火を滅ぼす象徴です――」などと、いろいろな根拠らしきことを述べている。

【10月】
曹丕が布令を出す。「むかし周(しゅう)の文王(ぶんのう)は、天下の3分の2を保有しながら殷(いん)に仕え、仲尼(ちゅうじ。孔子〈こうし〉)はその至徳を嘆称した」ことや、「周公旦(しゅうこうたん)は天子の位を踏み、天下の裁きにあずかったが、最後は主君に政治を奉還し、『尚書』(洛誥〈らくこう〉)はその人をたたえている」ことを挙げ、「自分の徳は、ふたりの聖人に及ばず、人柄も極めて低いとし、許芝の言葉のごときは、耳にすべき事柄であろうか」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の侍中の辛毗と劉曄、散騎常侍(さんきじょうじ)の傅巽(ふそん)と衛臻(えいしん)、尚書令の桓階、尚書の陳矯と陳羣、給事中(きゅうじちゅう)・博士(はくし)・騎都尉(きとい)の蘇林(そりん)と董巴(とうは)らが、曹丕に上奏する。先の許芝の上奏文を見たうえで、曹丕に天命を受けるよう乞うもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
癸丑(きちゅう)の日(11日)
曹丕が布令を出す。「どうかこの論議(諸臣が曹丕に、漢帝〈献帝〉に代わって即位するよう勧めたこと)を休止して、これ以上、私の不徳を大きくしないでほしい」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の督軍(とくぐん)・御史中丞(ぎょしちゅうじょう)の司馬懿(しばい)、侍御史(じぎょし)の鄭渾(ていこん)・羊秘(ようひ)・鮑勛(ほうくん)・武周(ぶしゅう)らが、曹丕に言上する。

曹丕の布令と先の許芝の上奏文を読んだうえで、「周の文王を超える道義を示されるのは、過剰な謙虚さというものです」として、同じく曹丕に天命を受けるよう乞うもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。「世の中で不足しているものは道義であり、有り余っているものはいい加減なでたらめさである」として、重ねて謙譲の姿勢を示すもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
献帝が、兼御史大夫(けんぎょしたいふ。御史大夫代理)の張音(ちょうおん)に節(せつ。使者のしるし)を持たせ、天子の印璽(いんじ)と綬(じゅ。組み紐〈ひも〉)を捧げ、曹丕に帝位を譲ろうとする。
『三国志』(魏書・文帝紀)

これが本紀(ほんぎ。文帝紀)の記述。乙卯(いつぼう)の日(10月13日)の詔(みことのり)に対応しているようだ。

⇒乙卯の日(13日)
献帝が、曹丕に天下を譲る旨の詔を下す。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

このくだりで「使持節(しじせつ)・行御史大夫事(こうぎょしたいふじ。御史大夫代理)・太常(たいじょう)の張音を使者とし、皇帝の璽綬を捧げ持たせる」とある。

⇒10月
乙卯の日
献帝が退位し、魏王の曹丕が天子を称する。曹丕は、退位した献帝を山陽公(さんようこう)に封じて1万戸を与えたうえ、その位を諸侯王の上に置いた。

さらに、(山陽公は)奏事の際に臣と称さずともよい、詔を受ける際に拝礼せずともよい、天子の車駕と服装を用いて天地を祭ってもよい、宗廟(そうびょう)・祖・臘(ろう)の祭祀も漢制の通りに執り行ってもよいとした。

山陽国は濁鹿城(だくろくじょう)を国都とした。(献帝の)4人の皇子で、かつて王に封ぜられていた者は、みな列侯に降格された。
『後漢書』(献帝紀〈けんていぎ〉)

李賢注(りけんちゅう)によると「『献帝春秋(けんていしゅんじゅう)』に『このとき献帝は群臣卿士を招集して、(漢王朝の終焉〈しゅうえん〉を高祖〈こうそ〉劉邦〈りゅうほう〉の)高廟(こうびょう)に告げ、詔を下して太常の張音に節を持たせ、策と璽綬を(曹丕に)奉じさせ、位を魏王(曹丕)に譲った。そのために(受禅)壇を繁陽県(はんようけん)の故城に造り、魏王は壇に登って皇帝の璽綬を受けた』とある」という。

同じく李賢注によると「山陽は県の名であり、河内郡(かだいぐん)に属す。故城は唐(とう)の懐州(かいしゅう)脩武県(しゅうぶけん)の西北にある」という。

同じく李賢注によると「濁鹿は一名を濁城といい、また清陽城(せいようじょう)ともいう。唐の懐州脩武県の東北にある」という。

⇒?月
位にあること7年、曹魏が成立したため、曹皇后は山陽公の夫人になった(降格された)。
『後漢書』(曹皇后紀〈そうこうごうぎ〉)

ここでいう7年は、皇后としての在位期間だけでは足りないと思う。貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)であった1年も含むようだ。

【10月】
曹丕配下の尚書令の桓階らが、曹丕に上奏文を奉る。乙卯の日(10月13日)の詔について、「天命は辞退してよいものではなく、万民の希望は反してよいものではありません」として、「天子の位に即かれるための儀礼を整えられますように」と請願したもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。「絶対に禅譲を受けないという意向についてだけ論議せよ」というもの。また「猟(征伐)から帰った後、改めて布令を出す」ともした。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の尚書令の桓階らが、再び曹丕に上奏文を奉る。堯と舜(しゅん)の例などを挙げ、「平坦な場所に壇場をしつらえ、めでたき天命に応え奉られるべきです」として、「速やかに侍中や常侍(じょうじ)たちと会議を開き、儀礼について論議され、太史の官に吉日を選ばせた後、また上奏いたします」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。「私はまったく禅譲を受けるつもりがない。それなのに、あらかじめ何を準備しておくことがあろうか」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の侍中の劉廙、常侍の衛臻らが、曹丕に上奏する。「どうか霊兆に従い、速やかに帝位に登られますように」というもの。

また「太史丞の許芝に尋ねたところ、今月の己未(きび)の日(17日)は物事が完成する吉日であり、禅譲の命を受けるのにふさわしいとのことです」とし、「すぐに壇場を整えます。施行しなければならないことは、別に上奏いたします」と述べた。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。「たまたま外に出てみると、壇場が設けられていた。これは何のつもりか。私は詔を辞退して、お受けしない決意である。ただ、陣幕の前で璽書を開き、詔書を受け取る儀礼は平常通りとする。気候の寒いときであるから、壇を造っている者たちに作業をやめさせ、戻してやれ」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が璽書を開いた後、布令を出す。「璽綬を還し奉って、禅譲を辞退する旨の上奏文を書いてほしい」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
己未の日(17日)
曹丕が布令を出し、献帝に璽綬を返還するよう命ずる。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の輔国将軍(ほこくしょうぐん)・清苑侯(せいえんこう)の劉若(りゅうじゃく)ら120人が、曹丕に上書を奉る。

己未の日(10月17日)の布令を伏して読んだとしたうえで、舜や禹(う)の例を挙げ、「聖人は、天命の逆らうべからず、暦数の辞退すべからざることをわきまえておられた」とし、「臣(わたくし)どもは死罪を犯しても請願いたします」と述べ、「すぐに壇場を整えられ、吉日に至れば命を受けられること、前の上奏の通りにしてくださいませ。臣どもは手分けして布令を書き写し、布告いたしましょう」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。柏成子高(はくせいしこう)・顔闔(がんこう)・仲尼(孔子)・子産(しさん)などの例を挙げ、「速やかに天子(献帝)に文を奉って、璽綬を返上し、これ以上ごたごた言うでないぞ」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の輔国将軍・清苑侯の劉若ら120人が、再び曹丕に上奏文を奉る。「殿下は、天命にたがって小さな品行を飾り立てられ、人心に逆らって個人の意志に固執しておられます」と述べ、「臣どもは、あえて死を覚悟して請願いたします」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。「古代の聖王が統治したときと比べれば、今は太平とはほど遠い」として、「速やかに禅譲を辞退する文を書いて、璽綬を還し奉り、これ以上、私の不徳を大きくしないでもらいたい」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の侍中の劉廙らが、曹丕に上奏文を奉る。曹丕の聖意について、「懇篤を極めておられますが」としたうえで、「臣どもは、あえてご命令に従えましょうか」と述べ、「すぐにも文書を備えられ、使者を遣わされますように」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。泰伯(たいはく。周の太王〈たいおう〉の長子で、文王の父の兄)がみたび天下を辞退したことを挙げ、「わしは泰伯と異なる人間か」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
庚申(こうしん)の日(18日)
曹丕が、献帝に上書を奉る。乙卯の日(10月13日)の詔に応えたもので、「あくまで禅譲のご命令はお受けできない」とし、行相国(こうしょうこく。相国代理)・永寿少府(えいじゅしょうふ)の毛宗(もうそう)を遣わして、璽綬を返上するもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
辛酉(しんゆう)の日(19日)
曹丕配下の給事中・博士の蘇林と董巴が、曹丕に上奏文を奉る。歳星(さいせい。木星)の動きや五行(ごぎょう)の巡り合わせを挙げ、「詔に従い、帝位に即かれますように」と懇願するもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。「天の瑞祥(ずいしょう)は彰(あきら)かであっても、徳があって初めて輝くものだ」とし、「私は徳薄き人間であり、どうしてそれを引き受ける価値があろう」として、改めて禅譲を辞退する旨を知らせるもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
壬戌(じんじゅつ)の日(20日)
献帝が、再び曹丕に天下を譲る旨の詔を下す。庚申の日(10月18日)の上書に応えたもので、張音を遣わして曹丕に璽綬を届け、帝位に登るよう命ずるもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の尚書令の桓階らが、曹丕に上奏する。周の武王(ぶおう)や舜が、いかに速やかに天命を奉承したかを示したうえ、曹丕に禅譲の詔を受けるよう、あえて死を覚悟して請願したもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。「3度目の辞退を願い出ているのに認められない。どうして卿(けい)らはこのことにこだわるのだ」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
甲子(こうし)の日(22日)
曹丕が、献帝に上書を奉る。壬戌の日(10月20日)の詔に応えたもので、禅譲を固辞する旨を伝え、またもや璽綬を返上したもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の侍中の劉廙らが、曹丕に上奏する。「殿下は、たびたび禅譲の詔を拒絶されましたが、いったい何の礼によっておられるのでしょうか」と述べ、「臣どもは、あえて死罪を憚(はばか)らず請願いたします」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。「天下は宝物のごとく大切なものであり、王者は正しい血統を必要とする。聖徳を備えた者が政権を担当したとしても、なお恐懼(きょうく)の念を抱くものなのだ」と述べ、「公卿(こうけい)らにとって、主君が存在しないという事態に立ち至っているわけではない」とし、「禅譲の詔を固辞した結果、どうなるかを見極めた後、改めて可能なことを論議すべきである」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
丁卯(ていぼう)の日(25日)
献帝が、みたび曹丕に天下を譲る旨の詔を下す。勅使として張音が遣わされ、曹丕に皇帝の璽綬を届けさせる。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の相国(しょうこく)の華歆(かきん)、太尉(たいい)の賈詡(かく)、御史大夫の王朗(おうろう)および九卿(きゅうけい)が、曹丕に上書を奉る。

先の太史丞の許芝と左中郎将の李伏、また侍中の劉廙らの上奏文を拝読したとしたうえで、「天命を長い間、引き延ばしておくわけにはいかず、民の希望に長い間、逆らっているわけにはまいりません」と述べ、曹丕に、「謙遜の気持ちを捨て去られ、禅譲をお受けになるための儀礼を整えられますように」と請願したもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。「徳義からすれば、私は不足しており、時機からすれば、外敵はいまだに滅びずにいる。もし賢人たちのおかげで生命を全うすることができ、魏国の君主として終われるなら、私の場合は十分である」とし、「天の瑞兆や人の動きという点になると、これらはすべて先王(曹操)の遺された聖徳のおかげであって、どうして私の力であろうぞ」と述べ、「だからこそ、あえて詔に従おうとしないのだ」というもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
己巳(きし)の日(27日)
曹丕が、献帝に上書を奉る。「勅使として遣わされた張音に、禅譲の詔を固辞すると伝えましたが、復命に帰りません」とし、「すぐに張音を御史台(ぎょしだい)に召還してください」と述べ、配下の毛宗にこの上書を届けさせた。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の相国の華歆、太尉の賈詡、御史大夫の王朗および九卿が、再び曹丕に上奏する。「使命に対する自覚と広い度量を、この際に明らかにすべきであり、小さな節義にこだわって引きずられ、このときに実行しないのはよろしくありません。長らく天命を引き延ばした罪は、臣どもにあります」と述べ、「速やかに壇場を築いて儀礼を整えられ、吉日を選んで祭礼を執り行われますように」と請願するもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出す。「舜が堯の禅譲を受けて、盛服を身に着け、堯のふたりの娘を娶(めと)ったのは、天命に従ったからである」とし、「群公卿士たちが、本当に天命を拒否してはならず、民の希望に逆らってはならないと考えるのなら、私もどうして辞退しようぞ」と述べたもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
庚午(こうご)の日(28日)
献帝が、よたび曹丕に天下を譲る旨の詔を下す。守尚書令(しゅしょうしょれい。尚書令代行)・侍中の衛覬(えいき)を遣わし、帝位に登るよう曹丕を諭させた。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕配下の尚書令の桓階らが、曹丕に上奏する。「神器(帝位の象徴の宝物)を長い間とどめ、億兆の民の願いを拒むのはよろしくありません」として、「太史令に命じて、王朝成立の初日を選ばせましたが、今月の辛未(しんび)の日(29日)は、壇に登って天命をお受けになるのにふさわしい日でございます」と述べ、承諾の命令を下すよう請願したもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】
曹丕が布令を出し、禅譲を受け入れる旨を伝える。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【10月】「献帝の禅譲と曹丕の即位」
庚午の日(28日)
曹丕が、繁陽に築いた壇に登り、帝位に即く。
『三国志』(魏書・文帝紀)

⇒辛未の日(29日)
曹丕が壇に登り、献帝から禅譲を受ける。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

こちらが『献帝伝』の記事。本紀とは1日ズレている。

【10月】「魏(ぎ)の改元(建元)」
魏の曹丕が、「延康」を「黄初」と改元したうえ、大赦令を下す。
『三国志』(魏書・文帝紀)

⇒10月
魏の曹丕が、三公(ここでは、相国・太尉・御史大夫)に詔を下し、「『延康元年』をもって『黄初元年』となし、正朔(せいさく。ここでは正月の月)を改めて服色を変え、称号を異にし、音律と度量を統一し、土徳の五行に従うことを論議するように」と命ずる。

また、天下に大赦令を下し、「死罪以下、本来は赦免すべきでない者も含め、みな赦免するように」とも命じた。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『献帝伝』

【11月】
癸酉(きゆう)の日(1日)
魏の曹丕が、漢の献帝を山陽公に封ずる。その領邑(りょうゆう)は、河内郡山陽県の1万戸とされた。

また「漢の正朔(ここでは暦)をそのまま使うこと、天子の儀礼によって天を祭ること、上書する場合に、臣ととなえなくてもよいこと」を認めたうえ、都で太廟(たいびょう)の祭事を行ったときには供物を届けることとし、4人の息子たちを列侯に封じた。
『三国志』(魏書・文帝紀)

『後漢書』(献帝紀)では、先の10月乙卯の日の記事で、これらの件にも触れている。

【11月】
魏の曹丕が、皇祖の太王(たいおう。曹嵩〈そうすう〉)を追尊して太皇帝(たいこうてい)の称号を、父の武王(ぶおう。曹操)に武皇帝の称号を、それぞれ奉り、さらに王太后(卞氏〈べんし〉)を尊んで皇太后の称号を奉る。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【11月】
魏の曹丕が、民の男子それぞれに爵位を1級ずつ賜与し、跡継ぎ、父母など目上の者によく仕える者、農事に熱心な者には、それぞれ爵位を2級与える。
『三国志』(魏書・文帝紀)

このくだり、初めはわからなかったが、『後漢書』や『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注を読み、「民に爵号を下賜した」という意味がわかった。

漢では、国家に慶事もしくは凶事が起こったとき、民の男子(長男限定など、場合によって対象者は異なる)に爵位を賜与する制度があったという。当然、魏にも同じような制度があったということだった。このあたりのことについては、215年1月の記事を参照。

【11月】
魏の曹丕が、漢の諸侯王を崇徳侯(すうとくこう)に、漢の列侯を関中侯(かんちゅうこう)に、それぞれ封ずる。

また、潁陰県(えいいんけん)の繁陽亭(はんようてい)については、自身が禅譲を受けた地として、繁昌県(はんしょうけん)と改めた。封爵や官位の昇進が行われ、人によって格差がつけられた。

相国を司徒(しと)に、御史大夫を司空(しくう)に、奉常(ほうじょう)を太常に、郎中令を光禄勲(こうろくくん)に、大理(だいり)を廷尉(ていい)に、大農(だいのう)を大司農(だいしのう)に、それぞれ改称した。郡国の県や邑(ゆう。村)にも多くの変更があった。

匈奴(きょうど)の南単于(なんぜんう)の呼廚泉(こちゅうせん)に改めて璽綬を授け、青蓋車(せいがいしゃ)・乗輿(じょうよ)・宝剣・玉玦(ぎょっけつ。1か所が切れている環状の玉)を賜与した。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【12月】
魏の曹丕が洛陽宮(らくようきゅう)を造営し、戊午(ぼご)の日(17日)になって洛陽に行幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「臣(わたくし)裴松之が調べたところでは」とあり、「諸書に、このとき帝(曹丕)は北宮に住まい、建始殿(けんしでん)に群臣を参朝させ、その門の名を承明(しょうめい)といった、と記録している。陳思王(ちんしおう)の曹植(そうしょく)の詩に、『帝に謁す承明の廬(ろ)』といっているのがそれである。明帝(めいてい。曹叡〈そうえい〉)の時代になって、初めて漢の南宮・崇徳殿のあった場所に、太極(たいごく)・昭陽(しょうよう)の諸殿を起工したのである」としている。

また「『魏書』にいう」として、「夏(か)の時代の暦が、天の正しい秩序に合致していると判断した結果、夏暦(立春が1月にあたる陰暦)を採用し、服の色は黄(土徳の象徴)を尊重した」ともある。

さらに「『魏略』にいう」として、「詔によって、漢は五行からいうと火であり、火は水を忌む。したがって『洛』の字は、『水』を取り去って『隹(すい)』を加え、『雒』とした(雒陽)。魏は五行の順序からいうと土にあたる。土は水の牡(?)である。水は土を得て初めて流れ、土は水を得て柔らかくなる。したがって『隹』を取り去って『水』を加え、『雒』の字を『洛』に変えることにした(洛陽)」ともある。

⇒12月
魏の曹丕が洛陽に宮殿を営み、洛陽を都と定める。
『正史 三国志8』の年表

【?月】
この年、曹丕配下の長水校尉(ちょうすいこうい)の戴陵(たいりょう)が、「たびたび狩猟にお出かけになられるのは、よろしくありません」と諫言し、曹丕を激怒させた。戴陵は死罪になるところを、1等下の刑に減刑された。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【?月】
この年、孫権配下の呂岱(りょたい)が歩騭(ほしつ)の跡を引き継ぎ、交州刺史(こうしゅうしし)に就任した。

呂岱が交州に着任すると、高涼(こうりょう)の不服従民たちの首領である銭博(せんはく)が、降伏を申し入れてきた。呂岱は孫権の許可を得て、銭博を高涼西部都尉(こうりょうせいぶとい)に任じた。
『三国志』(呉書・呂岱伝)

『後漢書』(郡国志)の劉昭注によると、「建安25(220)年に、孫権が高梁郡(こうりょうぐん)を設置した」という。高涼郡ではなく高梁郡なのが、いくらか気になる。

【?月】
この年、魏の曹丕が、弟の曹植を安郷侯(あんきょうこう)に貶(おと)し、曹植の一派に属する丁儀(ていぎ)一族を皆殺しにした。
『正史 三国志8』の年表

【?月】
この年、魏の陳羣が「九品官人法(きゅうひんかんじんほう)」を定めた。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(220年)に亡くなったとされる人物」
夏侯惇(かこうとん)郭憲(かくけん)黄忠(こうちゅう)曹操(そうそう)仲長統(ちゅうちょうとう)丁廙(ていい)丁儀(ていぎ)董和(とうか)?法正(ほうせい)劉封(りゅうほう)

(注)この年は記事が多かったため、「前半」と「後半」に分けました。

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