221年(魏の黄初2年・蜀の章武元年)の主な出来事

-221年- 辛丑(しんちゅう)
【魏】 黄初(こうしょ)2年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)
【蜀】 章武(しょうぶ)元年 ※昭烈帝(しょうれつてい。劉備〈りゅうび〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
魏(ぎ)の曹丕が、天地の祭りと明堂(めいどう。政堂)の祭祀を執り行う。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉)

【01月】
甲戌(こうじゅつ)の日(3日)
魏の曹丕が、木柵を作って鳥獣の退路をふさぎ、狩猟を催す。この際、原陵(げんりょう)まで行き、使者を遣わして太牢(たいろう。牛・羊・豕〈し。ブタ〉)を捧げ、漢(かん)の世祖(せいそ。光武帝〈こうぶてい〉)を祭った。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【01月】
乙亥(いつがい)の日(4日)
魏の曹丕が、洛陽(らくよう)の東の郊外で太陽を祭る。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【01月】
魏の曹丕が、孝廉(こうれん)の制度を見直す。これまで人口が10万未満の郡国では、年にひとりの孝廉を推挙していたものを、格別に優秀な者がいるときには、人口や戸数で限定することなく推挙できるものと改めた。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【01月】
辛巳(しんし)の日(10日)
魏の曹丕が、三公の領邑(りょうゆう)を分割し、その子弟ひとりずつを列侯(れっこう)に封ずる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【01月】
壬午(じんご)の日(11日)
魏の曹丕が、潁川郡(えいせんぐん)の田租を1年間免除する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

『魏書』…このときの曹丕の詔(みことのり)。潁川郡の田租を免除する理由について。

【01月】
魏の曹丕が、許県(きょけん)を許昌県(きょしょうけん)と改め、魏郡の東部を陽平郡(ようへいぐん)に、西部を広平郡(こうへいぐん)に、それぞれ改組する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「『魏略(ぎりゃく)』にいう」として、「長安(ちょうあん)・譙(しょう)・許昌・鄴(ぎょう)・洛陽を改めて5つの都とし、石の標識を立てた。西は宜陽(ぎよう)を境界とし、北は太行(たいこう)山脈に沿い、東北は陽平を境界とし、南は魯陽(ろよう)に沿い、東は郯(たん)を境界とする地を、中都(ちゅうと)の地域と定めた。天下の人民に、その内部に移住することを許可し、5年間の租税を免除したが、後にはさらに免除の期間を延長した」ともある。

【01月】
魏の曹丕が、議郎(ぎろう)の孔羨(こうせん)を宗聖侯(そうせいこう)に取り立て、100戸の領邑を与えて孔子(こうし)の祭祀を奉じさせる。

また、魯郡(ろぐん)に命じて孔子の旧廟(きゅうびょう)を修復させ、100戸の吏卒を置いて守護させた。さらに廟の外に広大な屋敷を建て、学者たちを住まわせた。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【03月】
魏の曹丕が、遼東太守(りょうとうたいしゅ)の公孫恭(こうそんきょう)に車騎将軍(しゃきしょうぐん)の官を加える。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【03月】
魏の曹丕が、五銖銭(ごしゅせん。漢代に通行し、董卓〈とうたく〉によって廃止された、重さ5銖の銅貨)を復活させる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【04月】
魏の曹丕が、車騎将軍の曹仁(そうじん)を大将軍(だいしょうぐん)に任ずる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「車騎将軍の曹仁を……」とあるが、一時的に車騎将軍の公孫恭とカブっているようだ。

【04月】「劉備の即位」
丙午(へいご)の日(6日)
蜀(しょく)の劉備が帝位に即き、大赦を行ったうえ、年号を「章武」と定める。

諸葛亮(しょかつりょう)を丞相(じょうしょう)に、許靖(きょせい)を司徒(しと)に、それぞれ任じ、百官を設置して宗廟(そうびょう)を建立し、高皇帝(こうこうてい。漢の高祖〈こうそ〉劉邦〈りゅうほう〉)以下をその廟に併せ祭った。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)

【04月】
孫権(そんけん)が、公安(こうあん)から鄂(がく)に移り、その地を都に定め、鄂を武昌(ぶしょう)と改める。併せて、武昌・下雉(かち)・尋陽(じんよう)・陽新(ようしん)・柴桑(さいそう)・沙羡(さい)の6県をもって武昌郡を設置した。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)

地名の沙羡について、沙羡と沙羨(させん)は各所で混用が見られる。このサイトでは『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)に従い、沙羡としておく。

【05月】
魏の鄭甘(ていかん)が、再び反乱を起こす。曹仁が討伐にあたり、鄭甘を斬った。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【05月】
蜀の劉備が、呉氏(ごし)を皇后に、劉禅(りゅうぜん)を皇太子に、それぞれ立てる。
『三国志』(蜀書・先主伝)

【05月】
孫権のもとに、「建業(けんぎょう)で甘露が降った」との報告が届く。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【06月】
庚子(こうし)の日(1日)
魏の曹丕が、五岳(ごがく。泰山〈たいざん〉・華山〈かざん〉・衡山〈こうざん〉・恒山〈こうざん〉・嵩山〈すうざん〉)と四瀆(しとく。長江〈ちょうこう〉・黄河〈こうが〉・淮水〈わいすい〉、済水〈せいすい〉)を、それぞれ格に応じて祭る。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【06月】
甲辰(こうしん)の日(5日)
魏の曹丕が、まだ都(洛陽)の宗廟が完成していなかったため、建始殿(けんしでん)で武皇帝(ぶこうてい。曹操〈そうそう〉)を祭る。「曹丕自身が供物を手にし、家庭の礼のように執り行った」ともある。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏書』

【06月】「甄氏(しんし)の死」
丁卯(ていぼう)の日(28日)
魏の曹丕の夫人である甄氏が死去する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

⇒06月
魏の曹丕が、甄夫人を殺害する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【06月】
戊辰(ぼしん)の日(29日)、晦(かい)
日食が起こる。魏の担当官吏が曹丕に、「太尉を罷免されますように」と上奏する。しかし曹丕は詔を下し、「災害異変は元首を譴責(けんせき)するものである」として、「今後は天災があっても、二度と三公を弾劾しないように」と命じた。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【06月】
蜀の劉備が、息子の劉永(りゅうえい)を魯王(ろおう)に、劉理(りゅうり)を梁王(りょうおう)に、それぞれ封ずる。
『三国志』(蜀書・先主伝)

【07月】「張飛(ちょうひ)の死」
蜀の車騎将軍の張飛が、側近に殺害される。この事件の前、劉備は、孫権が関羽(かんう)を処刑したことに怒り、東征に向かおうとしていた。結局、劉備は、7月に諸軍を統率して孫権討伐に向かった。
『三国志』(蜀書・先主伝)

⇒07月
蜀の劉備が、孫権討伐の軍を動かす。その出発に際し、張飛が部下に殺害される。
『正史 三国志8』の年表

【08月】
孫権が、魏に使者を遣わして上奏し、領内に留めていた于禁(うきん)らを送り帰す。
『三国志』(魏書・文帝紀)

⇒?月
孫権が、捕らえていた于禁らを魏に帰す。魏の曹丕が帝位に登って以後、孫権はその命令を奉じ、藩臣(はんしん)と称していた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

⇒08月
孫権が、魏に使者を遣わして臣と称し、于禁・東里袞(とうりこん)らを送還する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【08月】「呉王(ごおう)孫権」
丁巳(ていし)の日(19日)
魏の曹丕が、太常(たいじょう)の邢貞(けいてい)に節(せつ。使者のしるし)を持たせて孫権のもとに遣わし、孫権を大将軍に任じたうえ、呉王に封じ、九錫(きゅうせき)を加える。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【08月】
孫権が、武昌(鄂)に城壁を築く。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【10月】
魏の曹丕が、楊彪(ようひゅう)を光禄大夫(こうろくたいふ)に任ずる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「『魏書』にいう」として、「己亥(きがい)の日(10月2日?)、魏の公卿(こうけい)は朔(さく)の朝の参朝を行った際、もとの漢の太尉である楊彪を招き、賓客の礼をもって待遇した。曹丕は、詔の中で孔光(こうこう)と卓茂(たくぼう)の例を挙げ、『格別の恩寵を授けて、徳高き老人を表彰すべきである』とし、楊彪に長命の杖と床几(しょうぎ)を賜与した。そして、拝謁や請願の際に杖をついて入ることや、鹿皮冠(ろくひかん)を着けることを許した」とある。「楊彪は辞退したが認められず、麻布のひとえに皮弁(ひべん)を着けて拝謁した」ともある。

また「『続漢書(しょくかんじょ)』にいう」として、「楊彪は漢朝の命運が尽きようとしているのを見、自分が代々三公の位を受けていたことから、魏の下臣となるのを恥と考えていた。結局は足の痙攣(けいれん)と称して、二度と出かけなかった。10余年が過ぎ、帝(曹丕)が王位(魏王)に即くと、楊彪を太尉に取り立てたいと思い、近臣に宣旨を伝えさせた。しかし楊彪は辞退し、曹丕もその気持ちを尊重した」

「その後、黄初4(223)年に詔を下して光禄大夫に任じ、中二千石(せき)の禄を与え、孔光の旧例に倣って、朝見の際の席次は三公に格付けされた。楊彪は上書して固辞したが、曹丕は許可しなかった。また、門に行馬(こうば。人馬の通行止めの柵)を設けて吏卒を置き、楊彪を優遇、崇拝した。楊彪は、黄初6(225)年に84歳で死去した」ともある。

【?月】
魏の曹丕が、穀物の高騰により五銖銭を廃止する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【11月】
辛未(しんび)の日(5日)
魏の鎮西将軍(ちんぜいしょうぐん)の曹真(そうしん)が、大勢の将軍や州郡の兵に命令を下し、反乱を起こした蛮族の治元多(ちげんた)・盧水(ろすい)・封賞(ほうしょう)らを討伐。5万余の首を斬り、10万人の捕虜を得、111万匹の羊と8万頭の牛を捕獲する。こうして河西(かせい)は平定された。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注に引く『魏書』

⇒11月
魏の涼州刺史(りょうしゅうしし)の張既(ちょうき)が、異民族の反乱を鎮め、河西の地を安定させる。
『正史 三国志8』の年表

【11月】
己卯(きぼう)の日(13日)
魏の曹丕が、大将軍の曹仁を大司馬(だいしば)に任ずる。
『三国志』(魏書・文帝紀)

ここで「大将軍の曹仁を……」とあるが、一時的に大将軍・呉王の孫権とカブっているようだ。正式に任命されるまでの時期的なズレと見るべきか?

【11月】
魏の曹丕が、孫権を呉王に封じて九錫を加える。
『三国志』(呉書・呉主伝)

8月丁巳(ていし)の日(19日)に出された曹丕の詔が、使者の邢貞によって、11月に孫権のもとに届けられたという解釈だろう。

【12月】
魏の曹丕が東方を巡幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【?月】
この年、魏の曹丕が陵雲台(りょううんだい)を築いた。
『三国志』(魏書・文帝紀)

【?月】
この年、魏の曹丕が、息子の曹叡(そうえい)を斉公(せいこう)に封じた。
『三国志』(魏書・明帝紀〈めいていぎ〉)

⇒?月
この年、魏の曹丕が、弟で鄢陵侯(えんりょうこう)の曹彰(そうしょう)を鄢陵公に進めるなど、一族の多くを侯から公に進めた。しかし、弟で安郷侯(あんきょうこう)の曹植(そうしょく)については、鄄城侯(けんじょうこう)に移封しただけだった。
『三国志』(魏書・任城威王彰伝〈じんじょういおうしょうでん〉)ほか

【?月】
この年、蜀の劉備が、軍をひきいて孫権を攻め、巫山(ふざん)や秭帰(しき)まで侵出する。

劉備は、その地から武陵(ぶりょう)の異民族に使者を遣わし、蜀に付くよう誘いかけて仮の官印と割り符を授け、恩賞と爵位を約束した。

そのため、この一帯の諸県や五谿(ごけい。武陵近辺の谿谷。異民族が集まって住んでいた地域)の住民たちはみな呉に背き、蜀に付いた。

孫権は、陸遜(りくそん)に総指揮を執らせ、朱然(しゅぜん)や潘璋(はんしょう)らとともに蜀軍の侵出を防ぐよう命じた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
この年、孫権が、孫登(そんとう)を王太子に立てた。
『三国志』(呉書・呉主伝)

【?月】
この年、劉備が蜀で帝号を称し、また孫権も呉で自ら王を称した。ここに至り、天下はついに三分された。
『後漢書』(献帝紀〈けんていぎ〉)

特記事項

「この年(221年)に亡くなったとされる人物」
于禁(うきん)甄氏(しんし)A ※曹丕(そうひ)の妻張飛(ちょうひ)麋竺(びじく)?劉廙(りゅうい)

「この年(221年)に生まれたとされる人物」
羊祜(ようこ)

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