-222年- 壬寅(じんいん)
【魏】 黄初(こうしょ)3年 ※文帝(ぶんてい。曹丕〈そうひ〉)
【蜀】 章武(しょうぶ)2年 ※昭烈帝(しょうれつてい。劉備〈りゅうび〉)
【呉】 黄武(こうぶ)元年 ※大帝(たいてい。孫権〈そんけん〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
丙寅(へいいん)の日(1日)
日食が起こる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・文帝紀〈ぶんていぎ〉)
【01月】
庚午(こうご)の日(5日)
魏(ぎ)の曹丕が許昌宮(きょしょうきゅう)に行幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【01月】
魏の曹丕が詔(みことのり)を下す。現在の上計吏(じょうけいり)と孝廉(こうれん)について触れ、郡国に対して「選抜者の年齢にこだわらないように」と命ずるもの。「経学(けいがく)に通じている儒者や法律に通じている者は、全員を試用する」とした。また担当官吏には、「故意に事実に合わない推挙をした者があれば糾弾せよ」とも命じた。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【01月】
孫権配下の陸遜(りくそん)が、将軍の宋謙(そうけん)らを引き連れて蜀(しょく)の5つの駐屯地を攻め、これらをすべて討ち破り、蜀の部将たちを斬る。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)
【02月】
癸亥(きがい)の日(28日)
孫権が、魏の曹丕に上書する。劉備の軍勢4万と馬2、3千頭が秭帰(しき)を出たことを伝えたうえ、これを掃討する意思を示したもの。
『三国志』(魏書・文帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏書』
【02月】
鄯善(ぜんぜん)・亀茲(きゅうじ)・于闐(うてん)の王が、それぞれ魏に使者を遣わして献上品を奉る。
曹丕は詔を下し、「服属してきた外民族をいたわり、ねぎらうように」と命じた。これ以後、西域との交通がなされるようになり、戊己校尉(ぼきこうい)が設置された。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【02月】
蜀の劉備が、巫峡(ふきょう)から夷道(いどう)まで軍営を連ね、孫権の軍勢と対峙(たいじ)する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
⇒02月
蜀の劉備が、秭帰から夷道の猇亭(おうてい)に進駐し、配下の馬良(ばりょう)に五谿蛮(ごけいばん)の慰撫(いぶ)を命ずる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表
【03月】
乙丑(いっちゅう)の日(1日)
魏の曹丕が、息子で斉公(せいこう)の曹叡(そうえい)を平原王(へいげんおう)に封じ、弟で鄢陵公(えんりょうこう)の曹彰(そうしょう)ら一族11人も、みな王に封ずる。
また、封王(ほうおう。最初に位に即いた王)の庶子(ここでは、継嗣以外の息子)を郷公(きょうこう)とし、嗣王(しおう)の庶子を亭侯(ていこう)とし、公の庶子を亭伯(ていはく)とする制度を定めた。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【03月】
甲戌(こうじゅつ)の日(10日)
魏の曹丕が、息子の曹霖(そうりん)を河東王(かとうおう)に封ずる。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【03月】
甲午(こうご)の日(30日)
魏の曹丕が襄邑(じょうゆう)に行幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【03月】
孫権のもとに、「鄱陽郡(はようぐん)で黄龍が現れた」との報告が届く。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【04月】
戊申(ぼしん)の日(14日)
魏の曹丕が、弟で鄄城侯(けんじょうこう)の曹植(そうしょく)を鄄城王に封ずる。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【04月】
癸亥の日(29日)
魏の曹丕が許昌宮に還幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【05月】
魏の曹丕が、荊州(けいしゅう)および揚州(ようしゅう)の江南(こうなん)にある8郡をもって荊州と定める。
これは、荊州牧(けいしゅうぼく)を兼ねていた呉王(ごおう)の孫権に配慮した措置で、荊州の江北(こうほく)にある諸郡は郢州(えいしゅう)と定めた。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【06月】「夷陵(いりょう)の戦い」
蜀の劉備が、猇亭で孫権配下の陸議(りくぎ。陸遜)に大敗し、蜀の将軍の馮習(ふうしゅう)や張南(ちょうなん)らが戦死する。
劉備は、猇亭から秭帰に戻り、離散した兵を収容。船を捨て、陸路で魚復(ぎょふく)に帰り、魚復県を永安(えいあん)と改めた。
孫権配下の将軍の李異(りい)と劉阿(りゅうあ)らが、劉備の軍勢を追撃して南山(なんざん)に駐屯した。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)
⇒閏06月
孫権が、夷陵で蜀軍を撃破する。
『三国志』(魏書・文帝紀)
⇒?
この年、蜀軍は分散して険阻な地に拠り、合わせて50余りもの軍営を築いていた。
孫権配下の陸遜は、相手の兵力に応じた兵を繰り出して対抗し、1月から閏6月までの間に、それらの軍営に決定的な打撃を与えた。一連の戦闘で斬首したり、蜀から投降してきた者は数万に上った。劉備は敗走し、その身ひとつでかろうじて逃げ帰った。
『三国志』(呉書・呉主伝)
⇒閏06月
蜀の劉備が呉軍に大敗。その後、劉備は永安(魚復を改名)に駐営するが、やがて病にかかる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補・改訂版』(坂口和澄著 潮書房光人社)の『三国志』年表
【07月】
魏の冀州(きしゅう)で大規模な蝗(イナゴ)の被害が発生し、民が飢える。曹丕は、尚書(しょうしょ)の杜畿(とき)に節(せつ。使者のしるし)を持たせ、官倉を開いて救済するよう命じた。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【?月】
魏の曹丕が、孫権に息子を人質として差し出すよう要求する。しかし孫権は言を左右にし、この要求に応じようとしなかった。
『正史 三国志8』の年表
【08月】
蜀の黄権(こうけん)が、軍勢をひきいて魏に降る。
『三国志』(魏書・文帝紀)
★ここで「『魏書』にいう」として、「黄権および領南郡太守(りょうなんぐんたいしゅ)の史郃(しこう)ら318人は、荊州刺史(けいしゅうしし。ここでは魏の夏侯尚〈かこうしょう〉)のもとに出向き、仮に持っていた印綬(いんじゅ。官印と組み紐〈ひも〉)・棨戟(けいげき。木で作った儀式用のほこ)・幢麾(どうき。指揮に用いる旗)・牙門(がもん。大将の軍門)・鼓車(陣太鼓を載せる車)を奉上した」
「さらに黄権らは、曹丕の行在所(あんざいしょ。ここでは許昌)にも出向いた。曹丕は宴席をしつらえて音楽を奏でさせ、承光殿(しょうこうでん)で黄権らを引見。黄権や史郃らは、それぞれ曹丕の前に進み出て挨拶した。そこで曹丕は、軍事における成功と失敗や、去就の建前について論説し、諸将はみな歓喜した」
「曹丕は、黄権に金帛(きんぱく)・車馬・衣服・帷帳・妻妾(さいしょう)を賜与したうえ、下位の者たちにもその副将に及ぶまで、全員に格差をつけて下賜の品を授けた」
「また曹丕は、黄権を侍中(じちゅう)・鎮南将軍(ちんなんしょうぐん)に任じ、列侯(れっこう)に取り立て、その日のうちに召し寄せて驂乗(さんじょう。天子〈てんし〉の車に同乗すること)させた。さらに史郃ら42人もみな列侯に取り立て、将軍や郎将になった者は100余人もあった」ともある。
【08月】
蜀の劉備が、兵を収めて巫に帰る。このころ蜀の司徒(しと)の許靖(きょせい)が死去した。
『三国志』(蜀書・先主伝)
【09月】
甲午の日(3日)
魏の曹丕が詔を下す。「婦人が政治に関与することは乱の本源である」として、「今後、群臣は太后に政事を奏上してはならない」というもの。
また「后(きさき)の一族は、政事を補佐する任務を引き受けてはならない」とし、「ほしいままに領地を伴った爵位を受けてはならない」とした。そして「もし違反する者があれば、天下は協力してその者を誅滅せよ」とも命じた。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【09月】
庚子(こうし)の日(9日)
魏の曹丕が、郭氏(かくし)を皇后に立てる。この際、天下の男子にそれぞれ2級ずつ爵位を授けた。また、連れ合いのない男女や重病人、貧窮して自立できない者には穀物を下賜した。
『三国志』(魏書・文帝紀)
★前にも同じような記述があったが、「天下の男子にそれぞれ2級ずつ爵位を授けた」というくだり、ここでもよくわからなかった。
★『後漢書(ごかんじょ)』や『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注を読み、「民に爵号を下賜した」という意味がわかった。
漢では、国家に慶事もしくは凶事が起こったとき、民の男子(長男限定など、場合によって対象者は異なる)に爵位を賜与する制度があったという。当然、魏にも同じような制度があったということだった。このあたりのことについては、215年1月の記事を参照。
【09月】
魏の曹丕が、曹休(そうきゅう)・張遼(ちょうりょう)・臧霸(そうは)らを遣わし、洞口(どうこう)まで軍を進めさせる。
さらに、曹仁(そうじん)には濡須(じゅしゅ)まで軍を進めさせ、曹真(そうしん)・夏侯尚・張郃(ちょうこう)・徐晃(じょこう)には南郡(なんぐん)を包囲するよう命ずる。
これに対し孫権は、呂範(りょはん)らに命じ、五軍を指揮して水軍をもって魏の曹休らの侵出を食い止めさせ、諸葛瑾(しょかつきん)・潘璋(はんしょう)・楊粲(ようさん)を南郡の救援に向かわせ、朱桓(しゅかん)を濡須督(じゅしゅとく)に任じて、曹仁の侵攻を食い止めようとした。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【10月】
甲子(こうし)の日(3日)
魏の曹丕が、首陵山(しゅりょうざん)の東に寿陵(生前に造る陵墓)を築かせ、葬礼の制度をあらかじめ定める。
『三国志』(魏書・文帝紀)
★このくだりで「山を利用して寿陵の本体を造り、土盛りや植樹をしてはならない」としたり、「寝殿(陵墓の上の正殿)を建て、園邑(えんゆう。陵墓を守るための村落)を造り、神道(陵墓への道)を通じてはならない」ともした。
また「骨には痛みやかゆみといった知覚はなく、塚穴は精神を住まわす住み家ではない。棺槨(かんかく。内棺と外棺)は骨を朽ちさせ、衣衾(いきん。衣服としとね)は肉を朽ちさせるだけのもので十分だと考える」と述べている。
「乾燥材として葦(アシ)や炭を置かず、金銀や銅鉄を副葬することなく、すべて瓦器を用い、塗車(泥の車)・芻霊(すうれい。茅〈カヤ〉で作った人馬)を用い、古代の建前に合致させるように」と命じた。
「柩(ひつぎ)は、ただ漆(うるし)を用いて板の継ぎ目の3か所の留めに塗り、口に含ませるものとして珠玉を用いることなく、珠の肌着と身体を包む玉の匣(はこ)を施すことのないように」と言い、「そういったものは愚かな風俗のなせる業だ」とした。
★この後のくだりで、「動乱以来、漢氏(漢の帝室である劉氏)の諸陵墓には発掘されないものはなく、身体にまとっている玉の匣と、それをつづる金の縷(いと)を焼き取るため、骸骨も一緒に滅び去るに至っている。これは火あぶりの刑であって、いったい激しい痛みを感じないでおれようか」ともある。この部分だけは、先に述べたことと一部矛盾するように思えるが……。
★さらに、皇后から貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)以下に及ぶまで、王に付き従って領国に赴かない者が亡くなった場合、「みな澗水(かんすい)の西の前方(洛陽〈らくよう〉寄りの地域)に埋葬したうえ、その場所に標識を立てるだけとせよ」とした。
【10月】
孫権が、再び魏の曹丕に背く。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【10月】
魏の曹丕が、先に設置した郢州を廃止し、もとの荊州に戻す。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【10月】
魏の曹丕が、南方征討のため許昌から出撃する。孫権は、長江(ちょうこう)を前にして抵抗し、守りを固めた。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【10月】
蜀の劉備が、丞相(じょうしょう)の諸葛亮(しょかつりょう)に詔を下し、成都(せいと)に南郊北郊(天地を祭る場所。南郊では冬至に天を祭り、北郊では夏至に地を祭る)の造営を命ずる。
孫権が、劉備が白帝(はくてい)に留まっていることを聞き、使者を遣わして和睦を求める。劉備も申し出を受け入れ、太中大夫(たいちゅうたいふ)の宗瑋(そうい)を遣わして返事を伝えさせた。
『三国志』(蜀書・先主伝)
【?月】「孫権の自立」
孫権が、年号を「黄武」と定め、長江沿いの防備を固める。
『三国志』(呉書・呉主伝)
⇒10月
孫権が、「黄武」の年号を建てる。
『正史 三国志8』の年表
【11月】
大風が吹き、呉の呂範配下の兵に数千の溺死者が出る。このため、残った呉軍は江南(こうなん)へ引き揚げた。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【11月】
魏の曹休が臧霸に命じ、決死隊1万と快速船500艘(そう)により、丹徒(たんと)の徐陵(じょりょう)を襲撃させる。臧霸は呉の攻城車を焼き、数千人を殺したり捕虜にした。
呉の将軍の全琮(ぜんそう)と徐盛(じょせい)は、これを追撃して、魏の部将の尹盧(いんろ)を斬り、数百人を殺したり捕らえたりした。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【11月】
辛丑(しんちゅう)の日(11日)
魏の曹丕が宛(えん)に行幸する。
『三国志』(魏書・文帝紀)
⇒?月
魏の文帝(曹丕)が宛に行幸し、夏侯尚に諸軍を統率させ、曹真と協力して呉の江陵(こうりょう)を包囲させた。呉の諸葛瑾は、長江の中流にある中洲(なかす)に渡り、別に水軍を江上に待機させた。
魏の夏侯尚は、夜中にこっそり下流から長江を渡って諸葛瑾の軍を攻め、船に火をかけた後、水陸両軍で一斉に攻め立てて撃破した。しかし、江陵城を陥落させる前に疫病が大流行したため、曹丕は夏侯尚に引き揚げを命じた。
『三国志』(魏書・夏侯尚伝)
【11月】
庚申(こうしん)の日(30日)、晦(かい)
日食が起こる。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【12月】「呉蜀の和睦」
呉の孫権が、太中大夫の鄭泉(ていせん)を遣わして白帝の劉備を聘問(へいもん)させ、呉と蜀は再び友好関係を回復する。
『三国志』(呉書・呉主伝)
【12月】
蜀の漢嘉太守(かんかたいしゅ)の黄元(こうげん)が、劉備の病状を聞き知って反乱を起こす。
『三国志』(蜀書・先主伝)
【?月】
この年、魏の曹丕が霊芝池(れいしち)を掘らせた。
『三国志』(魏書・文帝紀)
【?月】
この年、呉の孫権が、夷陵を西陵(せいりょう)と改めた。
『三国志』(呉書・呉主伝)
特記事項
「この年(222年)に亡くなったとされる人物」
王甫(おうほ)・許靖(きょせい)・張南(ちょうなん)A ※劉備(りゅうび)配下の将軍・張遼(ちょうりょう)・程畿(ていき)・鄧方(とうほう)?・馬超(ばちょう)・馬良(ばりょう)・傅肜(ふゆう)・馮習(ふうしゅう)・楊俊(ようしゅん)A ※あざなは季才(きさい)・李朝(りちょう)・劉巴(りゅうは)A ※あざなは子初(ししょ)
「この年(222年)に生まれたとされる人物」
杜預(とよ。どよ)
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