200年(漢の建安5年)の主な出来事

-200年- 庚辰(こうしん)
【漢】 建安(けんあん)5年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】「曹操(そうそう)殺害計画の発覚」
董承(とうしょう)らの曹操殺害計画が漏れ、曹操は関係者全員を死刑に処した。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)

⇒01月
車騎将軍(しゃきしょうぐん)の董承、偏将軍(へんしょうぐん)の王服(おうふく)、越騎校尉(えっきこうい)の种輯(ちゅうしゅう)が、献帝の密詔(みっしょう)を受けて曹操を誅殺しようとしたものの、その謀議が漏れる。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「王服は、『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・先主伝〈せんしゅでん〉)では王子服(おうしふく)。また『三国志』(蜀書・諸葛亮伝〈しょかつりょうでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『漢晋春秋(かんしんしゅんじゅう)』では李服(りふく)とある。董承とともに曹操暗殺を謀るが、事前に漏れて誅殺された」という。

⇒01月
壬午(じんご)の日(9日)
曹操が董承らを殺害し、その三族も皆殺しにする。
『後漢書』(献帝紀)

⇒?月
(このとき)董承の娘が献帝の貴人(きじん。皇妃の位のひとつ)となっていたが、曹操は董承を誅殺した際、この董貴人も捕らえて殺害した。献帝は、董貴人が身ごもっていることを理由にしきりに命乞いをしたが、曹操を止めることはできなかった。

それ以来、伏皇后(ふくこうごう)は曹操に恐怖を感じ、父の伏完(ふくかん)に手紙を出して、曹操の残虐さと事態の逼迫(ひっぱく)を訴えて密かに暗殺を謀らせた。しかし、あえて伏完は行動を起こさなかった。
『後漢書』(伏皇后紀〈ふくこうごうぎ〉)

【?月】
曹操自ら劉備(りゅうび)討伐に乗り出す。曹操は劉備を討ち破り、劉備配下の夏侯博(かこうはく)を生け捕りにした。劉備は袁紹(えんしょう)のもとに逃げ、曹操は残された劉備の妻子も捕らえた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】「関羽(かんう)の投降」
曹操が、さらに下邳(かひ)まで軍を進める。この際、劉備配下の関羽が曹操に降った。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
昌豨(しょうき)が曹操に背き、劉備に味方する。しかし、曹操はこれを攻め破る。その後、曹操は官渡(かんと)に戻ったが、袁紹は結局、曹操不在の間に出撃しなかった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【02月】
袁紹が、郭図(かくと)・淳于瓊(じゅんうけい)・顔良(がんりょう)を遣わし、白馬(はくば)にいた東郡太守(とうぐんたいしゅ)の劉延(りゅうえん)を攻めさせる。袁紹自身も兵をひきいて黎陽(れいよう)に赴き、黄河(こうが)を渡ろうとした。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【04月】
曹操が劉延の救援に赴く。この際、荀攸(じゅんゆう)の進言を容れ、延津(えんしん)から兵を渡河させ、袁紹軍の背後を突く姿勢を見せる。

その後、袁紹が兵を分けて対応すると、曹操は軽鋭の兵をひきい、通常の倍の速度で白馬に向かった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「杜預(とよ)は『(陳留郡〈ちんりゅうぐん〉酸棗〈さんそう〉)県の北に延津がある』と言っている」という。

杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。

【?月】
曹操が、白馬から迎撃に出た顔良に対し、張遼(ちょうりょう)と関羽に先陣を命じて撃破する。この際、顔良が斬られた。こうして曹操は白馬の包囲を解き、その地の住民たちを移すと、黄河に沿って西へ向かった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
袁紹が、黄河を渡って曹操軍を追い、延津の南まで進む。曹操は兵を留め、南阪(なんはん)に陣営を築いた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【04月】「孫策(そんさく)の死」
孫策が、曹操と袁紹が対峙(たいじ)していると聞き、許(きょ)を襲撃する計画を立てる。ところが出発前に、孫策は刺客に殺害されてしまう。
『三国志』(魏書・武帝紀)

⇒04月
孫策が、先に殺害した許貢(きょこう)の食客らに襲われて負傷し、その後に亡くなる。このとき26歳だった。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫策伝)

なお、この年(200年)の4月4日に亡くなったというのは、『志林(しりん)』などからの引用によるもので、『三国志』の本文には具体的な日付の記録はないようだ。

⇒?月
この年、孫策が死去し、弟の孫権(そんけん)が遺された事業を継いだ。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「(孫策は)許貢の賓客に射られて負傷した(ため死去した)のである」という。

【?月】
曹操が、白馬から動いてきた自軍の輜重(しちょう)部隊を餌にして、袁紹配下の文醜と劉備がひきいる5、6千の騎兵部隊を散々に討ち破る。この際、文醜が斬られた。このとき曹操軍の騎兵は600に満たなかった。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】「関羽の帰還」
曹操が、軍を官渡に還す。一方の袁紹は、陽武(ようぶ)に軍を進める。このころ関羽が劉備のもとに逃げ帰った。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
曹操が献帝に上表し、孫権が討虜将軍(とうりょしょうぐん)に任ぜられるよう取り計らう。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【07月】
献帝が、皇子の劉馮(りゅうふう)を南陽王(なんようおう)に封ずる。
『後漢書』(献帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「劉馮は献帝の長子。この年(200年)南陽王に封ぜられたが、年内に薨(こう)じた」という。

【07月】
壬午(じんご)の日(12日)
南陽王の劉馮が薨去(こうきょ)する。
『後漢書』(献帝紀)

【08月】
袁紹が、陣営を連ねて少しずつ前進する。袁紹は砂山に沿って陣を布(し)いたが、これは東西数十里にもわたるものだった。

曹操は、陣営を分けて対応したものの負け戦となる。このとき曹操軍は1万に満たなかったが、そのうち10分の2、3が負傷した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

このあたりのくだりに裴松之が疑問を呈している。「もし曹操軍がわずか数千だったのなら、10余万もの袁紹軍に対して、長期にわたって抵抗するのは不可能ではないか?」と。このことについてさらに3つの理由を挙げ、「記録をする者が、兵の少なさによって曹操の見事さを示したいと考えたのであって、事実ではない」とも。

また『三国志』(魏書・鍾繇伝〈しょうようでん〉)の記事に、「鍾繇が2千余頭の馬を送って軍に補給した」とあることを挙げ、曹操が600余頭の騎馬を持っていたとする、本紀(ほんぎ)と『世語(せいご)』の記述の不自然さを指摘している。

【?月】
袁紹が、軍を進めて官渡に臨み、土山と地下道を築く。曹操も同じものを造って対応する。

曹操は兵糧が少なくなったため、許に残っていた荀彧(じゅんいく)に手紙を送り、帰還の相談をする。しかし荀彧は、「今こそ天下分け目のときです」と主張して鼓舞し、曹操もこの意見に従った。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
汝南(じょなん)の賊将の劉辟(りゅうへき)らが曹操に背き、袁紹に味方して許の近郷を荒らす。

袁紹は、劉備に劉辟を援護するよう命ずるが、曹操は、曹仁(そうじん)を遣わして劉備を撃破。劉備は逃走し、劉辟の屯営も討ち破られた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
曹操が荀攸の計略を用い、徐晃(じょこう)と史渙(しかん)に命じて、袁紹の兵糧輸送車を襲わせる。ふたりはこれを散々に討ち破り、数千台をことごとく焼き払った。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【09月】
庚午(こうご)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。これを受けて献帝が詔(みことのり)を下し、三公に至孝の者をふたりずつ推挙させ、九卿(きゅうけい)・校尉(こうい)および郡国の太守と国相(こくしょう)には、それぞれひとりずつを推挙させる。また、すべての者に封事を奉らせ、憚(はばか)ることがないよう命じた。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
曹操と袁紹が官度(官渡)で戦い、袁紹が敗走する。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「裴松之の『北征記(ほくせいき)』に、『中牟台(ちゅうぼうだい)の下は汴水(べんすい)に臨み、これが官度(官渡)である。袁紹と曹操(が築いた)土塁が今なお残っている』とある。唐(とう)の鄭州(ていしゅう)中牟県の北にある」という。

『後漢書』の本紀では、このあたりの官渡の戦いもごくあっさりと扱っている。

【10月】
袁紹は、さらに輸送車を投入して兵糧を運搬させることにし、淳于瓊らに1万余の兵を与えて護送を命ずる。淳于瓊らは、袁紹の本営から北40里に宿営した。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
袁紹配下の許攸(きょゆう)が曹操のもとに奔り、「淳于瓊らを急襲されますように」と進言する。曹操の側近たちは許攸の言葉に疑いを持ったが、荀攸と賈詡(かく)は容れるよう勧めた。

曹操は許攸の進言を容れ、曹洪(そうこう)に留守を守らせると、自ら5千の歩騎をひきいて夜中に出発し、夜明けごろ淳于瓊の陣を攻めた。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】「官渡の戦いの決着」
袁紹が騎兵を遣わし、淳于瓊を救援させる。しかし、曹操は淳于瓊らを散々に討ち破り、彼らをすべて斬っていた。

このとき袁紹は、張郃(ちょうこう)と高覧(こうらん)に曹洪を攻めさせていた。淳于瓊が敗れた後、ふたりは曹操に降伏した。

袁紹軍は総崩れとなり、袁紹は長子の袁譚(えんたん)とともに軍を捨てて逃げ、黄河を渡る。曹操は袁紹を追わせたが、ついに追いつけなかった。

曹操は、袁紹が捨てていった輜重・図書・珍宝類をすべて回収し、残っていた部下を捕虜にした。

曹操が回収した袁紹あての書簡の中には、自分の配下である許の城下や軍中の者からの書簡も含まれていたが、曹操はこれらをすべて焼かせた。冀州(きしゅう)の諸郡では、城邑(じょうゆう)を挙げて降伏する者が多数出た。
『三国志』(魏書・武帝紀)

『後漢書』(郡国志)の劉昭注によると、「杜預は『(陳留郡の酸棗県の)東に烏巣(うそう)があるが、曹操が袁紹を討ち破った場所である』と言っている」という。

【10月】
辛亥(しんがい)の日(12日)
彗星(すいせい)が大梁(たいりょう)に現れる。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「大梁は(西方である)酉(ゆう)の方角である」という。

【10月】
東海王(とうかいおう)の劉祗(りゅうし)が薨去する。
『後漢書』(献帝紀)

【?月】「鄭玄(ていげん。じょうげん)の死」
この年、鄭玄が死去した(127年~)。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(200年)に亡くなったとされる人物」
孫策(そんさく)董承(とうしょう)

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