-257年- 丁丑(ていちゅう)
【魏】 甘露(かんろ)2年 ※高貴郷公(こうききょうこう。曹髦〈そうぼう〉)
【蜀】 延熙(えんき)20年 ※後主(こうしゅ。劉禅〈りゅうぜん〉)
【呉】 太平(たいへい)2年 ※会稽王(かいけいおう。孫亮〈そんりょう〉)
月別および季節別の主な出来事
【02月】
魏(ぎ)の温県(おんけん)の井戸の中に青龍が現れる。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・高貴郷公紀〈こうききょうこうぎ〉)
【02月】
甲寅(こういん)の日(13日)
呉(ご)で大雨が降り、雷も鳴る。
乙卯(いつぼう)の日(14日)
呉で雪が降り、厳しい寒さとなる。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫亮伝〈そんりょうでん〉)
【03月】
魏の司空(しくう)の盧毓(ろいく)が死去する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【春】
呉の孫亮が、長沙郡(ちょうさぐん)の東部を分割して湘東郡(しょうとうぐん)を、同じく西部を分割して衡陽郡(こうようぐん)を、それぞれ設置する。
また、会稽郡(かいけいぐん)の東部を分割して臨海郡(りんかいぐん)を、豫章郡(よしょうぐん)の東部を分割して臨川郡(りんせんぐん)を、それぞれ設置した。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
【04月】
癸卯(きぼう)の日(3日)
魏の曹髦が詔(みことのり)を下す。玄菟郡(げんとぐん)高顕県(こうけんけん)における官民の反乱により、県長の鄭熙(ていき)が殺害された件について触れ、「鄭熙の遺骸を背負い、夜を日に継いで郷里まで運んだという平民の王簡(おうかん)を、特別に忠義都尉(ちゅうぎとい)に任じ、この優れた行為を表彰せよ」というもの。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【04月】
甲子(こうし)の日(24日)
魏の曹髦が、征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の諸葛誕(しょかつたん)を司空に任ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【04月】「孫亮の親政」
呉の孫亮が、正殿に出御(しゅつぎょ)して大赦を行い、初めて自ら政治を執る。
孫亮は、孫綝(そんりん)の意見に反対や反論し、聞き入れようとしないことが多くなった。また、兵士の子弟で15~18歳の者の中から3千人以上を選抜し、特別部隊を編制した。そして主だった部将の子弟から、若くて勇気と力のある者を選び、部隊の指揮官とした。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
★『呉歴(ごれき)』および『江表伝(こうひょうでん)』…孫亮の頭の良さを示す、鼠(ネズミ)の糞(ふん)の話。
【05月】
辛未(しんび)の日(1日)
魏の曹髦が、辟雍(へきよう。天子〈てんし〉が建てた太学〈たいがく〉)に行幸して群臣を集め、皆に詩を作るよう命ずる。
侍中(じちゅう)の和逌(かゆう)や尚書(しょうしょ)の陳騫(ちんけん)らは、詩を作るのが遅かったため、担当官吏が「罷免されますように」と上奏したが、曹髦は「このようなもめごとが起こるのは、わが意に反する」と応えて、和逌らを許した。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【05月】「諸葛誕の反乱」
乙亥(いつがい)の日(5日)
魏の司空の諸葛誕が、麾下(きか)の軍をこぞって反乱を起こし、揚州刺史(ようしゅうしし)の楽綝(がくりん)を殺害する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
⇒05月
魏の征東大将軍(せいとうだいしょうぐん)の諸葛誕が、淮南(わいなん)の軍勢をひきいて寿春城(じゅしゅんじょう)に立て籠もる。
諸葛誕は、将軍の朱成(しゅせい)を呉に遣わすと、呉の臣下と称して孫亮に上疏し、魏から寝返るので援軍を送ってほしい旨を伝えたうえ、息子の諸葛靚(しょかつせい)と長史(ちょうし)の呉綱(ごこう)、さらに側近の子弟たちを人質として送った。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
⇒?月
この年、魏の大将軍(だいしょうぐん)の諸葛誕が、寿春で反乱を起こす。このため蜀(しょく)の姜維(きょうい)が、またも軍勢をひきいて駱谷(らくこく)から出撃し、芒水(ぼうすい)に到達した。
『三国志』(蜀書〈しょくしょ〉・後主伝〈こうしゅでん〉)
⇒?月
蜀の姜維が、秦川(しんせん)まで兵を進める。魏の司馬望(しばぼう)と鄧艾(とうがい)が、これを防ぎ止めた。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【05月】
丙子(へいし)の日(6日)
魏の曹髦が、淮南の将兵や官民のうち、諸葛誕にだまされて反乱に加わった者たちに恩赦を与える。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【05月】
丁丑(ていちゅう)の日(7日)
魏の曹髦が詔を下し、淮南で反乱を起こした諸葛誕の討伐のため、郭太后(かくたいこう)とともに親征することを表明する。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【05月】
己卯(きぼう)の日(9日)
魏の曹髦が詔を下し、淮南で反乱を起こした諸葛誕に脅迫されたものの、それぞれ側近を引き連れて城門から斬って出た、平寇将軍(へいこうしょうぐん)・臨渭亭侯(りんいていこう)の龐会(ほうかい)と騎督(きとく)・偏将軍(へんしょうぐん)の路蕃(ろはん)について、「その忠義ぶりと勇敢さを称賛し、龐会の爵位を郷侯(きょうこう。臨渭郷侯)に進め、路蕃を亭侯(ていこう)に取り立てよ」というもの。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【06月】「孫壱(そんいつ)の投降」
乙巳(いっし)の日(6日)
魏の曹髦が詔を下し、呉から降った、呉の使持節(しじせつ)・都督夏口諸軍事(ととくかこうしょぐんじ)・鎮軍将軍(ちんぐんしょうぐん)・沙羡侯(さいこう)の孫壱を、魏の侍中(じちゅう)・車騎将軍(しゃきしょうぐん)・仮節(かせつ)・交州牧(こうしゅうぼく)に任じたうえ、呉侯(ごこう)に封ずる。
また、官からの呼び出しの際の儀礼は三公と同じとし、古代の侯伯を任命する際の「八命の礼」に基づき、天子の着物と冠に赤い靴を添えて下賜した。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
★裴松之(はいしょうし)の考え…「孫壱は禍いを恐れ、せっぱ詰まって魏に帰順しただけであり、その行為に称賛されるべき点は見当たらない」として、曹髦の厚遇ぶりを批判している。
★沙羡侯について、沙羡と沙羨(させん)は各所で混用が見られる。このサイトでは『後漢書(ごかんじょ)』(郡国志〈ぐんこくし〉)に従い、沙羡としておく。
⇒06月
呉の孫亮が、文欽(ぶんきん)・唐咨(とうし)・全端(ぜんたん)らに命じ、歩騎3万をひきいて諸葛誕の救援に向かわせる。また呉の朱異(しゅい)が、虎林(こりん)から軍勢をひきいて夏口を攻めたところ、夏口督の孫壱が魏に逃亡した。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
★この「孫壱が魏に逃亡した」というくだりが、ややわかりにくかった。孫壱が魏に寝返るそぶりを見せたため、朱異が攻めたということか?
⇒06月
武昌(ぶしょう)を守っていた呉の孫壱が、魏に逃亡する。
『正史 三国志8』の年表
【06月】
甲子(こうし)の日(25日)
魏の曹髦が詔を下し、むかし相国(しょうこく)や大将軍が討伐に出向く際には、いつも尚書(しょうしょ)が随行していたことに触れ、「昔の通りにするように」と命ずる。
これを受けて、散騎常侍(さんきじょうじ)の裴秀(はいしゅう)と給事(きゅうじ)黄門侍郎(こうもんじろう)の鍾会(しょうかい)が、大将軍(司馬昭〈しばしょう〉)に随行することになった。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【?月】
魏の司馬昭が曹髦を伴い、淮南に兵を進める。
『正史 三国志8』の年表
【07月】
呉の孫綝が軍勢をひきい、寿春の諸葛誕の救援に赴く。孫綝が鑊里(かくり)に軍を留めるうちに、夏口から朱異が到着する。
孫綝は、朱異を前部督(ぜんぶとく)に任じ、「丁奉(ていほう)らとともに介士(かいし。重武装の兵)5万を指揮して、寿春の包囲を突破するように」と命じた。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
【08月】
魏の曹髦が詔を下し、諸葛誕が反乱を起こした際、事前に強く反対して殺害された、主簿(しゅぼ)の宣隆(せんりゅう)と部曲督(ぶきょくとく)の秦絜(しんけつ)について触れ、「このふたりの息子を騎都尉(きとい)に取り立て、品物を下賜したうえ、このことを遠近に明示し、忠義に対する格別の沙汰とするように」と命ずる。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【08月】
呉の会稽郡(かいけいぐん)の南部で反乱が起こり、都尉(とい。会稽郡の南部は都尉が治めていた)が殺害される。また、鄱陽(はよう)・新都(しんと)の両郡でも反乱が起こり、呉の廷尉(ていい)の丁密(ていみつ)、歩兵校尉(ほへいこうい)の鄭冑(ていちゅう)、将軍の鍾離牧(しょうりぼく)が、それぞれ軍をひきいて討伐にあたった。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
★ここでは殺された都尉の名は記されていなかった。
【09月】
魏の曹髦が大赦を行う。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
【08月】
呉の朱異が兵糧の欠乏により、軍をまとめて帰還する。しかしこれに孫綝が激怒し、9月己巳(きし)の日(1日)、朔(さく)に、鑊里で朱異を殺害した。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
【09月】
辛未(しんび)の日(3日)
呉の孫綝が、鑊里から建業(けんぎょう)に帰還する。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
⇒09月
呉の孫綝が、魏軍に包囲された諸葛誕を救えないまま軍を退く。
『正史 三国志8』の年表
【09月】
甲申(こうしん)の日(16日)
呉の孫亮が大赦を行う。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
【11月】「全禕(ぜんい)・全儀(ぜんぎ)の投降」
呉の全緒(ぜんしょ)の息子である全禕と全儀が、母を連れて魏に逃げ込む。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
【12月】「全端・全懌(ぜんえき)の投降」
呉の全端と全懌らが、軍勢を引き連れて魏に降る。
『三国志』(魏書・高貴郷公紀)
⇒12月
呉の全端や全懌らが、寿春城から魏の司馬昭のもとに赴く。
『三国志』(呉書・孫亮伝)
【?月】
この年、蜀の劉禅が、またも大赦を行った。
『三国志』(蜀書・後主伝)
【?月】
この年、陶侃(とうかん)が生まれた(~332年)。
『正史 三国志8』の年表
特記事項
「この年(257年)に亡くなったとされる人物」
楽綝(がくりん)・朱異(しゅい)・劉承(りゅうしょう)B ※劉備(りゅうび)の曾孫・盧毓(ろいく)
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