189年(〈漢の中平6年〉→〈光熹元年〉→〈昭寧元年〉→〈永漢元年〉→中平6年)の主な出来事

-189年- 己巳(きし)
【漢】 (中平〈ちゅうへい〉6年) → (光熹〈こうき〉元年) → (昭寧〈しょうねい〉元年) → (永漢〈えいかん〉元年) → 中平6年に戻す

※霊帝(劉宏〈りゅうこう〉) → 少帝(劉辯〈りゅうべん〉) → 献帝(劉協〈りゅうきょう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【02月】
左将軍の皇甫嵩(こうほすう)が、陳倉で王国(おうこく)を大破する。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
幽州牧の劉虞(りゅうぐ)が、懸賞金をかけて漁陽の賊の張純(ちょうじゅん)を捕らえ、これを斬る。
『後漢書』(霊帝紀)

【03月】
下軍校尉の鮑鴻(ほうこう)が、投獄されて獄死する。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
丙午(へいご)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
霊帝が、太尉の馬日磾(ばじってい)を罷免し、幽州牧の劉虞を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】「霊帝の崩御」
丙辰(へいしん)の日(11日)
霊帝が、洛陽の南宮にある嘉徳殿で崩御する。このとき34歳だった。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】「少帝の即位」
戊午(ぼご)の日(13日)
霊帝の皇子の劉辯(少帝)が帝位に即く。このとき17歳だった。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
少帝が、霊帝の何皇后(かこうごう)を尊んで皇太后とし、何太后が臨朝することになる。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】「漢の改元」
少帝が大赦を行い、「中平」を「光熹」と改元する。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
少帝が、異母弟の劉協(りゅうきょう)を勃海王に封ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
少帝が、後将軍の袁隗(えんかい)を太傅に任じ、大将軍の何進(かしん)とともに参録尚書事とする。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
上軍校尉の蹇碩(けんせき)が、投獄されて獄死する。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「このとき蹇碩は、勃海王の劉協を擁立しようと企み発覚し(て誅殺され)た」という。

【05月】
辛巳(しんし)の日(6日)
驃騎将軍の董重(とうちょう)が、投獄されて獄死する。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】「董太后の崩御」
辛亥(しんがい)の日(7日)
孝仁董皇后が崩御する。
『後漢書』(霊帝紀)

【06月】
辛酉(しんゆう)の日(17日)
少帝が、孝霊皇帝を文陵に葬る。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注によると「(霊帝の文陵は)洛陽の西北20里にある。陵の高さは12丈、周囲は300歩である」という。

【06月】
水害があった。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【07月】
甘陵王の劉忠(りゅうちゅう)が薨去(こうきょ)する。
『後漢書』(霊帝紀)

【07月】
庚寅(こういん)の日(16日)
少帝が、孝仁董皇后を河間国の慎陵(孝仁皇帝と追尊された劉萇〈りゅうちょう〉の陵)に帰葬する。
『後漢書』(霊帝紀)

【07月】
少帝が、勃海王の劉協を陳留王に移封する。
『後漢書』(霊帝紀)

【07月】
少帝が、司徒の丁宮(ていきゅう)を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【08月】「何進の死」
戊辰(ぼしん)の日(25日)
中常侍の張譲(ちょうじょう)と段珪(だんけい)らが、何進を殺害する。これを受けて、虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)の袁術(えんじゅつ)が東宮と西宮を焼き、多くの宦官(かんがん)を攻めた。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒?月
何太后の兄である大将軍の何進は、宦官を誅殺しようとし、逆に宦官に殺害され、その母である舞陽君も乱兵によって殺害された。
『後漢書』(何皇后紀)

【08月】
庚午(こうご)の日(27日)
少帝が宦官らに脅迫され、徒歩で穀門を出て、黄河のほとりまで逃走する。宦官らが黄河に身を投げて自殺した後、14歳の少帝と9歳の陳留王の兄弟は、ふたりだけで歩いて宮殿に戻ろうとした。

ふたりは真っ暗闇の中を蛍の光を追って歩き、数里行ったところで民家を見つける。そして大八車に乗せられて、都(洛陽)への帰途に就いた。
『三国志』(魏書・董卓伝〈とうたくでん〉)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く張璠(ちょうはん)の『漢紀(後漢紀)』

14歳という少帝の年齢について、4月の『後漢書』の記事では17歳とあり、異なっている。

⇒08月
庚午の日
張譲と段珪らが少帝と陳留王をさらい、北宮の徳陽殿に行幸させる。その後、張譲と段珪らは再び少帝と陳留王をさらい、小平津(しょうへいしん)に逃げる。

尚書の盧植(ろしょく)がこれを追い、数人を斬ると、残りの者は河に身を投げて死んだ。少帝は、陳留王とともに蛍の光を頼りに数里を歩き、民家で覆いのない粗末な車を得て同乗した。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注…『続漢書』(五行志)にある、このとき洛陽で歌われていたという童謡について。

同じく李賢注によると「『献帝春秋』に、『河南中部掾(かなんちゅうぶえん)の閔貢(びんこう)は天子の出御を見ると、騎兵をひきいてこれを追いかけ、明け方に河のほとりで追いついた。天子は飢え渇いていたので、閔貢は羊を割いて勧めた』」

「『閔貢は大声で張譲らを叱責し、貴様ら宦官はしょせん奴隷。一物を切り落とされた罪人にすぎぬ。汚濁の分際で日月(じつげつ)(のような天子)を奉戴し、国恩を勝手に用い、卑しい身分を高貴と偽った。主君を脅迫して王室を転覆させ、己の命を寸刻だけ長らえるため、天子を河津(かしん)にまで拐(かどわ)かしおった』」

「『(王莽〈おうもう〉の)新が滅んで以来、姦臣賊子(かんしんぞくし)の貴様ら以上という者はおらん。いまここで速やかに死なねば、俺が貴様らを射殺す、と言った。張譲らは恐れおののき。叉手(さしゅ)して再拝叩頭(さいはいこうとう)し、天子に向かって別れを告げ、臣らは死にます。陛下はご自愛を、と言った。そして、ついに河に身を投げて死んだ』とある」という。

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「河南中部掾は官名。当時の河南尹は5部に分けられており、4部には督郵を、中部には掾を、それぞれ置いていた」という。

⇒08月
庚午の日
何進配下の部曲将の呉匡(ごきょう)が、朱雀闕(すざくけつ)で車騎将軍の何苗(かびょう)と戦い、これを斬る。
『後漢書』(霊帝紀)

上のふたつの『後漢書』の記事は、同日の出来事という解釈らしい。

【08月】
辛未(しんび)の日(28日)
三公と九卿以下の群臣が董卓とともに、北邙阪(ほくぼうはん)で少帝の還幸を出迎える。
『三国志』(魏書・董卓伝)の裴松之注に引く張璠の『漢紀(後漢紀)』

⇒08月
辛未の日
司隷校尉の袁紹(えんしょう)が兵をひきい、偽の司隷校尉の樊陵(はんりょう)と河南尹の許相(きょしょう)および多くの宦官を捕らえ、長幼の区別なくみな斬る。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒08月
辛未の日
少帝が、陳留王とともに宮殿に還幸する。
『後漢書』(霊帝紀)

ここも、ふたつの『後漢書』の記事は同日の出来事という解釈らしい。やや窮屈な感じもするが、ありえないことではなさそう。

【08月】「漢の改元」
少帝が大赦を行い、「光熹」を「昭寧」と改元する。
『後漢書』(霊帝紀)

【08月】
幷州牧の董卓が、執金吾の丁原(ていげん)を殺害する。
『後漢書』(霊帝紀)

【08月】
少帝が、司空の劉弘(りゅうこう)を罷免し、董卓が自ら司空に就任する。
『後漢書』(霊帝紀)

【09月】「少帝の廃位と献帝の即位」
甲戌(こうじゅつ)の日(1日)
董卓が、少帝を廃して弘農王とし、何太后に政権を返上させたうえ、陳留王の劉協を即位させる。
『三国志』(魏書・董卓伝)

⇒09月
甲戌の日
董卓が少帝を廃位し、弘農王に貶(おと)す。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒09月
甲戌の日
陳留王の劉協が帝位に即く。このとき9歳だった。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】「漢の改元」
献帝が、何太后を永安宮に遷(うつ)す。そして大赦を行い、「昭寧」を「永漢」と改元した。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「董卓が(何太后を永安宮に)遷したのである。『洛陽宮殿名』に『永安宮は周囲698丈。もとの基壇は洛陽の故城の中にある』とある」という。

【09月】「何太后の崩御」
丙子(へいし)の日(3日)
董卓が何太后を殺害する。
『後漢書』(献帝紀)

⇒?月
董卓は議を起こし、「何太后が、永楽宮(孝仁董皇后)を追い詰めて憂死に至らせたのは、婦姑(ふこ)の礼に逆らうものである」とした。

何太后は永安宮に遷され、酖毒(ちんどく)を飲まされて崩御した。皇后および皇太后の位にあること10年だった。

董卓は献帝に、奉常亭で哭泣(こっきゅう)して哀悼させ、公卿はみな白い衣服(喪服)で朝会を行ったものの、喪には服さなかった。何太后は、霊帝の文陵の墓域内に造られた文昭陵に合葬された。
『後漢書』(何皇后紀)

【09月】
献帝が、初めて侍中と給事黄門侍郎の定員を、それぞれ6人とする。

また、公卿以下の黄門侍郎に至るまで、その家人のうちひとりを郎に取り立て、これまで宦官がつかさどっていた諸署の役職に充て、殿上に仕えさせた。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注…『続漢志』(百官志)にある侍中や給事黄門侍郎の役割についての話。

同じく李賢注によると「『献帝起居注』に、『宦官が(袁紹に)誅殺されて以来、侍中や侍郎が禁中に出入りし、たびたび機密が漏えいした。このため王允(おういん)が献帝に上奏し、侍中・侍郎・黄門を出入りさせないようにした。賓客を通さない習慣は、これより始まるのである』とある」という。

同じく李賢注によると「霊帝の熹平(きへい)4(175)年、平準を中準と改め、宦官をその令に起用した。それ以来、すべての内署の令や丞には宦官を充てるようになっていた。このため、ここですべて士人をもってこれに代えさせたのである」という。

【09月】
乙酉(いつゆう)の日(12日)
献帝が、太尉の劉虞を大司馬に任じ、司空の董卓が自ら太尉に就任する。

さらに董卓は鈇鉞(ふえつ。生殺与奪権の象徴)を貸し与えられ、虎賁兵(こほんへい)を持つことも許された。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
丙戌(へいじゅつ)の日(13日)
献帝が、太中大夫の楊彪(ようひゅう)を司空に任ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
甲午(こうご)の日(21日)
献帝が、豫州牧の黄琬(こうえん)を司徒に任ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
献帝が使者を遣わし、もとの太傅である陳蕃(ちんばん)や大将軍の竇武(とうぶ)らを弔わせる。
『後漢書』(献帝紀)

【09月】
6月から雨が降り、この9月まで降り続いた。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
乙巳(いっし)の日(3日)
献帝が霊思皇后(何氏)を葬る。
『後漢書』(献帝紀)

【10月】
白波の賊が河東郡に侵攻したものの、董卓が部将の牛輔(ぎゅうほ)を遣わして討伐させる。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「薛瑩(せつえい)の『後漢記』に、『黄巾賊の郭泰(かくたい)らは西河郡の白波谷で蜂起したので、当時これを白波の賊と言った』とある」という。

【11月】
癸酉(きゆう)の日(1日)
董卓が、自ら相国に就任する。
『後漢書』(献帝紀)

【12月】
戊戌(ぼじゅつ)の日(閏12月27日?)
献帝が、司徒の黄琬を太尉に、司空の楊彪を司徒に、光禄勲の荀爽(じゅんそう)を司空に、それぞれ任ずる。
『後漢書』(献帝紀)

【12月】
献帝が、扶風都尉の官を廃止し、漢安都護の官を設置する。
『後漢書』(献帝紀)

李賢注によると「扶風都尉の秩禄は比二千石(せき)。(前漢の)武帝の元鼎(げんてい)4(前113)年に設置され、(後漢の)中興の際にも改めなかった。ここに至って羌が三輔(長安を中心とする地域)に侵攻したため、これを廃止し、(代わって漢安)都護を設置し、西方を統帥させたのである」という。

『後漢書』(郡国志)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「『献帝起居注』に、『中平6(189)年に、扶風都尉の官を廃止して漢安郡を設置した』とある」という。劉昭は「漢安郡に属する県は、鎮雍・渝麋(ゆび)・杜陽・陳倉・汧県(けんけん)の5県である」ともいう。

【12月】
献帝が詔を下し、「光熹」「昭寧」「永漢」という3つの年号を破棄し、再び「中平6年」に戻す。
『後漢書』(献帝紀)

【12月】「曹操(そうそう)の旗揚げ」
曹操が(陳留郡の)己吾(きご)で旗揚げする。
『三国志』(魏書・武帝紀)

【?月】
この年、董卓のやり方に反対し、袁紹・盧植・袁術・曹操らが都の洛陽を離れ、それぞれの根拠地に戻って実力を養った。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【?月】
この年、公孫度(こうそんたく)が遼東太守に任ぜられた。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

霊帝・少帝・献帝のうち、誰から任命を受けたのかはわからなかった。

特記事項

「この年(189年)に亡くなったとされる人物」
何進(かしん)

「この年(189年)に生まれたとされる人物」
淩統(りょうとう)

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