-165年- 乙巳(いっし)
【漢】 延熹(えんき)8年 ※桓帝(劉志〈りゅうし〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
桓帝が、中常侍の左悺(さわん)を苦県(こけん)に遣わし、老子を祭らせる。
『後漢書』(桓帝紀)
★『後漢書』(郡国志)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「伏滔(ふくとう)の『北征記』に『(陳国の苦県には)老子の廟があり、廟の中に九井(きゅうせい)があり、それぞれの水が通じている』とある」という。
★同じく『後漢書』(郡国志)の劉昭注によると、「『古史考』に『(陳国の苦県には)曲仁里があり、老子の郷里である』とある」という。
【01月】
勃海王の劉悝(りゅうかい)が謀反を起こしたため、桓帝が癭陶王(えいとうおう)に降格する。
『後漢書』(桓帝紀)
【01月】
丙申(へいしん)の日(30日)、晦(かい)
日食が起こる。これを受けて、桓帝が公卿および校尉に詔を下し、賢良方正を推挙させた。
『後漢書』(桓帝紀)
【01月】
楊秉(ようへい)が侯覧(こうらん)一族の悪事を上奏し、侯覧が罷免される。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
【01月】
韓縯(かんえん)が左悺一族の悪事を上奏し、左悺が自殺する。
『正史 三国志8』の年表
【02月】
己酉(きゆう)の日(13日)
洛陽の南宮にある嘉徳署に黄龍が現れる。
『後漢書』(桓帝紀)
【02月】
洛陽の千秋万歳殿で火災が起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【02月】
太僕の左称(さしょう)が罪を得て自殺する。
『後漢書』(桓帝紀)
【02月】
癸亥(きがい)の日(27日)
桓帝が、皇后の鄧氏を廃位する。鄧氏の一族である河南尹の鄧万世(とうばんせい)、虎賁中郎将(こほんちゅうろうしょう)の鄧会(とうかい)が投獄されて獄死した。
『後漢書』(桓帝紀)
廃位された鄧氏は暴室(ぼうしつ)に送られたあと憂死し、北邙山(ほくぼうざん)に葬られた。そのおじにあたる河南尹の鄧万世および鄧会は、ともに投獄されて獄死。鄧統らもまた暴室に送られ、官爵を免ぜられて本郡に帰され、その財産は県官に没収された。
『後漢書』(鄧皇后紀)
★『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注および李賢注(りけんちゅう)によると、「鄧万世は鄧皇后の叔父、鄧会は鄧皇后の甥」だという。鄧会との関係がわかりにくかったので、一応補足しておく。
⇒02月
鄧皇后が郭貴人との勢力争いに敗れ、廃位されたうえ憂死。鄧氏一族も誅殺される。
『正史 三国志8』の年表
【02月】
護羌校尉の段熲(だんけい)が罕姐羌(かんしゃきょう)を討ち破る。
『後漢書』(桓帝紀)
【03月】
辛巳(しんし)の日(16日)
桓帝が大赦を行う。
『後漢書』(桓帝紀)
【04月】
甲寅(こういん)の日(19日)
安陵(恵帝の陵)の園寝で火災が起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【04月】
丁巳(ていし)の日(22日)
桓帝が詔を下し、郡国の多くの祀堂を取り壊すよう命ずる。
『後漢書』(桓帝紀)
【04月】
済陰・東郡・済北の3郡あたりの黄河の水が澄む。
『後漢書』(桓帝紀)
【05月】
壬申(じんしん)の日(8日)
桓帝が、泰山都尉の官を廃止する。
『後漢書』(桓帝紀)
【05月】
丙戌(へいじゅつ)の日(22日)
太尉の楊秉が死去する。
『後漢書』(桓帝紀)
【06月】
丙辰(へいしん)の日(22日)
緱氏県(こうしけん)で地割れが起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【06月】
桂陽郡の賊である胡蘭(こらん)・朱蓋(しゅがい)らが、再び反乱を起こす。彼らは郡県を攻め落とし、兵を転じて零陵郡に侵攻。零陵太守の陳球(ちんきゅう)がこれを防いだ。
『後漢書』(桓帝紀)
【06月】
桓帝が、中郎将の度尚(たくしょう)や長沙太守の抗徐(こうじょ)らに、胡蘭・朱蓋の討伐を命ずる。討伐軍は賊を大破し、これを斬った。
『後漢書』(桓帝紀)
【06月】
蒼梧太守の張叙(ちょうじょ)が虜囚の辱めを受けた罪、桂陽太守の任胤(じんいん)が敵前逃亡の罪により、ともに処刑される。
『後漢書』(桓帝紀)
【06月】
段熲が、湟中(こうちゅう)で当煎羌(とうせんきょう)を大破する。
『後漢書』(桓帝紀)
【07月】
桓帝が、太中大夫の陳蕃(ちんばん)を太尉に任ずる。
『後漢書』(桓帝紀)
【閏07月】
甲午(こうご)の日(1日)
洛陽の南宮にある長秋和歓殿の後方、鉤楯(こうじゅん)・掖庭(えきてい)・朔平(さくへい)の役所で火災が起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【08月】
戊辰(ぼしん)の日(6日)
桓帝が、初めて郡国の田租を銭で徴収する。
『後漢書』(桓帝紀)
★李賢注によると「田地1畝(ぽ)につき10銭だった」という。
【09月】
丁未(ていび)の日(15日)
洛陽で地震が起こる。
『後漢書』(桓帝紀)
【10月】
桓帝が、司空の周景(しゅうけい)を罷免し、太常の劉茂(りゅうぼう)を司空に任ずる。
『後漢書』(桓帝紀)
【10月】
辛巳(しんし)の日(20日)
桓帝が、貴人の竇氏(とうし)を皇后に立てる。
『後漢書』(桓帝紀)
【10月】
勃海郡の妖賊である蓋登(がいとう)らが太上皇帝と称し、玉印・珪(けい)・璧・鉄券を持ち、独自の官府を置く。このため彼ら妖賊は誅殺された。
『後漢書』(桓帝紀)
★李賢注によると「『続漢書』に『このとき蓋登らは玉印を5つ持っており、みな白石のようだった。その中には皇帝信璽、皇帝行璽、という文字が刻まれたものがあり、ほかの3つには文字が刻まれていなかった。璧を22、珪を5、鉄券を11持っていた。王の廟を開き、王の綬を帯び、絳(あか)い衣を着て、互いに役割を定め合っていた』とある」という。
【11月】
壬子(じんし)の日(21日)
洛陽の徳陽殿の西閤(せいこう)および黄門北寺で火災が起こる。この火が延焼して広義門や神虎門にまで広がり、焼死者が出る。
『後漢書』(桓帝紀)
★李賢注によると「袁山松(えんさんしょう)の『後漢書』に、『このとき毎月火事があり、諸官舎には1日に何度も火を発するものもあった。また、夜になるとおかしな声が聞こえたり、鼓の音がして人々を驚かせたりもした。陳蕃らは桓帝に上疏し、ただ善政だけがこれらの怪異を鎮められますと諫めたが、聞き入れられなかった』とある」という。
【11月】
桓帝が、中常侍の管霸(かんは)を苦県に遣わし、老子を祭らせる。
『後漢書』(桓帝紀)
【?月】
陳蕃がしばしば上言し、李膺(りよう)・馮緄(ふうこん)・劉祐(りゅうゆう)らの無罪を主張する。釈放された李膺は司隷校尉に任ぜられ、宦官(かんがん)勢力と対抗した。
『正史 三国志8』の年表
特記事項
「この年(165年)に生まれたとされる人物」
張遼(ちょうりょう)
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