166年(漢の延熹9年)の主な出来事

-166年- 丙午(へいご)
【漢】 延熹(えんき)9年 ※桓帝(かんてい。劉志〈りゅうし〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
辛卯(しんぼう)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『後漢書(ごかんじょ)』(桓帝紀〈かんていぎ〉)

【01月】
桓帝が、公卿(こうけい)や校尉(こうい)および郡国の刺史(しし)や太守(たいしゅ)に詔(みことのり)を下し、至孝の者を推挙させる。
『後漢書』(桓帝紀)

【01月】
沛国(はいこく)の戴異(たいい)が、文字の刻まれていない金印を発見。広陵郡(こうりょうぐん)の龍尚(りょうしょう)らとともに井戸を祭って予言書を偽作し、太上皇(たいじょうこう)と称する。このためふたりとも誅殺された。
『後漢書』(桓帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「戴異は沛国の賊。太上皇(『後漢紀〈ごかんき〉』では上皇帝)を自称して誅殺された」という。

同じく『全譯後漢書 第2冊』の補注によると、「龍尚は広陵郡の賊。戴異に組して反乱を起こしたため誅殺された」という。また「李賢注(りけんちゅう)に引かれた『東観漢記(とうかんかんき)』を見る限り、この龍尚が首謀者とも取れるが、『後漢紀』には見えないことから、やはり戴異のほうが太上皇であると推測できる」と指摘している。

【01月】
己酉(きゆう)の日(19日)
桓帝が詔を下し、連年の不作による民の困窮ぶりに触れたうえ、「大司農(だいしのう)は、今年の調度の徴発および昨年の未収分の徴収を打ち切るように。また、災異や盗賊の被害を受けた郡からは田租を徴収せず、そのほかの郡についても、すべて規定の半分を納めさせよ」とする。
『後漢書』(桓帝紀)

【01月】
荀爽(じゅんそう)が桓帝に上書を奉り、後宮の規模縮小を主張する。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【03月】
癸巳(きし)の日(4日)
洛陽(らくよう)に火の玉が現れ、人々を驚かせる。
『後漢書』(桓帝紀)

【03月】
司隷(しれい)と豫州(よしゅう)で多数の餓死者が出て、その数は10人に4、5人という惨状を呈する。このため一家ごと死に果てる者まで現れた。桓帝は三府の掾(えん)を遣わし、賜与を行わせた。
『後漢書』(桓帝紀)

【03月】
陳留太守(ちんりゅうたいしゅ)の韋穀(いこく)が贈賄の罪により自殺する。
『後漢書』(桓帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「韋穀は陳留太守。蔵財の罪に問われて自殺した」という。この部分は『贈賄の罪』というふうに訳されていたが、不正蓄財の罪のようなニュアンスも感じられ、いくらか引っかかる。

【04月】
済陰(せいいん)・東郡(とうぐん)・済北(せいほく)・平原(へいげん)の4郡あたりの黄河(こうが)の水が澄む。
『後漢書』(桓帝紀)

【04月】
桓帝が、司徒(しと)の許栩(きょく)を罷免する。
『後漢書』(桓帝紀)

【05月】
桓帝が、太常(たいじょう)の胡広(ここう)を司徒に任ずる。
『後漢書』(桓帝紀)

【06月】
南匈奴(なんきょうど)および烏桓(うがん。烏丸)・鮮卑(せんぴ)が、辺境の9郡に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)

⇒06月
張奐(ちょうかん)が中央に召し還された後、鮮卑・南匈奴・烏丸が塞内に侵攻する。
『正史 三国志8』の年表

【07月】
沈氐羌(しんていきょう)が、武威(ぶい)・張掖(ちょうえき)の両郡に侵攻する。
『後漢書』(桓帝紀)

【07月】
桓帝が詔を下し、三公はそれぞれふたりずつ、九卿と校尉はそれぞれひとりずつ、武勇ある者を推挙するよう命ずる。
『後漢書』(桓帝紀)

【07月】
桓帝が、太尉(たいい)の陳蕃(ちんはん)を罷免する。
『後漢書』(桓帝紀)

【08月】
庚午(こうご)の日(13日)
桓帝が、濯龍宮(たくりょうきゅう)で黄帝(こうてい)と老子(ろうし)を祭る。
『後漢書』(桓帝紀)

【08月】
桓帝が、使匈奴中郎将(しきょうどちゅうろうしょう)の張奐に南匈奴・烏桓(烏丸)・鮮卑の討伐を命ずる。
『後漢書』(桓帝紀)

【09月】
桓帝が、光禄勲(こうろくくん)の周景(しゅうけい)を太尉に任ずる。
『後漢書』(桓帝紀)

【09月】
南陽太守(なんようたいしゅ)の成瑨(せいしん)と太原太守(たいげんたいしゅ)の劉質(りゅうしつ)が、ともに誣告(ぶこく)を受けて公開処刑になる。
『後漢書』(桓帝紀)

『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「南陽太守の成瑨は宦官(かんがん)と結託していた郡内の張氾(ちょうはん)を、桓帝の赦令を無視してまで刑死させた。これにより宦官の劾奏(がいそう)を受けて、彼も刑死した」という。また「この『後漢書』(陳蕃伝)などでは獄死であって、棄死ではないこと」を指摘している。

同じく『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「劉質は『後漢書』(王允伝〈おういんでん〉)などでは劉瓆。太原太守。小黄門(しょうこうもん)の趙津(ちょうしん)を刑死させたことから、宦官の誣告を受けて彼も刑死した」という。

また「『王允伝』などでは獄死、『後漢書』(襄楷伝〈じょうかいでん〉)の李賢注に引く謝承(しゃしょう)の『後漢書』では、宗室であったため自殺を命ぜられたことになっており、こちらも棄死ではないこと」を指摘している。

【09月】
桓帝が、司空(しくう)の劉茂(りゅうぼう)を罷免する。
『後漢書』(桓帝紀)

【09月】
大秦国王(だいしんこくおう。ローマ皇帝)の使者が漢(かん)に来朝し、貢ぎ物を献ずる。
『後漢書』(桓帝紀)

李賢注によると「このときローマ皇帝の安敦(あんとん。マルクス=アウレリウス=アントニヌス)が、象牙・犀角(さいかく)・玳瑁(たいまい)などを献上した」という。

【12月】
洛陽城のそばにあった竹柏(ちくはく)が枯れる。
『後漢書』(桓帝紀)

【12月】
桓帝が、光禄勲の宣酆(せんほう)を司空に任ずる。
『後漢書』(桓帝紀)

【12月】
南匈奴と烏桓(烏丸)が一族をひきい、使匈奴中郎将の張奐に降る。
『後漢書』(桓帝紀)

【12月】「第一次党錮(とうこ)の禁」
司隷校尉(しれいこうい)の李膺(りよう)ら200余人が誣告を受け、党人(とうじん)と見なされる。彼らはみな投獄され、その名を朝廷の文書庫に書き付けられた。
『後漢書』(桓帝紀)

⇒12月
宦官の牢脩(ろうしゅう)が桓帝に上書し、「李膺らが太学生(たいがくせい)たちと結び、党派を立てて政治を誹謗(ひぼう)しております」と告発する。

これを受けて桓帝は、全国に党人に対する逮捕令を出す。逮捕の対象となった者は200余人。ある者は捕らえられ、ある者は地下に潜る。この際に皇甫規(こうほき)が、「私も党人の一味だ」と自ら名乗り出たが、相手にされなかった。
『正史 三国志8』の年表

河内郡(かだいぐん)の牢脩が誣告したことについては、李賢注でも触れられている。「事情は『後漢書』(劉淑伝〈りゅうしゅくでん〉)に詳しい」ともある。

【?月】
この年、桓帝が、皇女の劉脩(りゅうしゅう)を陽翟長公主(ようてきちょうこうしゅ)に封じた。
『後漢書』(皇后紀〈こうごうぎ〉)

特記事項

「この年(166年)に生まれたとされる人物」
太史慈(たいしじ)張裔(ちょうえい)

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