177年(漢の熹平6年)の主な出来事

-177年- 丁巳(ていし)
【漢】 熹平(きへい)6年 ※霊帝(劉宏〈りゅうこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【01月】
辛丑(しんちゅう)の日(15日)
霊帝が大赦を行う。
『後漢書』(霊帝紀)

【02月】
南宮の平城門および武庫の東垣(とうえん)の屋根が自然に壊れる。
『後漢書』(霊帝紀)

李賢注(りけんちゅう)によると「平城門は洛陽城の南門である。蔡邕(さいよう)は『平城門は正陽(せいよう。真南)の門であり、宮殿にまっすぐに連なっており、郊祀の際には皇帝の法駕(ほうが)がこの門から出る。門の中で最も尊いものである』としている」という。

「また、武庫は禁中の武器を収める場所。東垣は武庫の外障(外側の塀)である。(京房〈けいぼう〉の)『易伝』に、『小人が位にあると、その障りで城門が自然に壊れる』とある」という。

【04月】
大規模な日照りの被害が出る。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでは具体的な場所についての記述はなかった。

【04月】
7州で蝗(イナゴ)の被害が出る。
『後漢書』(霊帝紀)

ここでも具体的な場所についての記述はなかった。

【04月】
鮮卑が三辺(東西および北辺)から侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【04月】
霊帝が、宣陵(桓帝の陵)で喪に服していた数十人の商人を、みな太子舎人に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
このころ蔡邕がしばしば封事を行い、「政治と軍事全般について改革を行われますように」と主張するが、霊帝は聞き入れなかった。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【07月】
霊帝が、司空の劉逸(りゅういつ)を罷免し、衛尉の陳球(ちんきゅう)を司空に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【08月】
霊帝が、破鮮卑中郎将の田晏(でんあん)を雲中郡から、使匈奴中郎将の臧旻(そうびん)と匈奴の南単于(なんぜんう)を雁門郡から、護烏桓校尉の夏育(かいく)を高柳県から、それぞれ出撃させ、鮮卑の討伐を命ずる。しかし田晏らは大敗した。
『後漢書』(霊帝紀)

⇒?月
漢の護烏丸校尉(護烏桓校尉)の夏育、破鮮卑中郎将の田晏、匈奴中郎将(使匈奴中郎将)の臧旻が、匈奴の南単于のひきいる軍勢とともに雁門塞から出撃し、鮮卑の討伐に向かう。

しかし、鮮卑の檀石槐(たんせきかい)に大敗し、帰還できた漢軍は10分の1にすぎなかった。
『三国志』(魏書・鮮卑伝)

【10月】
癸丑(きちゅう)の日(1日)、朔(さく)
日食が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
霊帝が、太尉の劉寛(りゅうかん)を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【10月】
霊帝が辟雍(天子が建てた太学)に臨む。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
辛丑の日(20日)
洛陽で地震が起こる。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
辛亥(しんがい)の日(30日)
霊帝が、縑(きぬ)を納めることで未決囚に罪を購わせる。
『後漢書』(霊帝紀)

【11月】
霊帝が、司空の陳球を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
甲寅(こういん)の日(3日)
霊帝が、太常の孟戫(もういく)を太尉に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
庚辰(こうしん)の日(29日)
霊帝が、司徒の楊賜(ようし)を罷免する。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
霊帝が、太常の陳耽(ちんたん)を司空に任ずる。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
鮮卑が遼西郡に侵攻する。
『後漢書』(霊帝紀)

【12月】
永安太僕の王旻(おうびん)が、投獄されて獄死する。
『後漢書』(霊帝紀)

【?月】
この年、曹操が頓丘県令に就任した後、召し還されて議郎に任ぜられた。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

特記事項

「この年(177年)に生まれたとされる人物」
王粲(おうさん)霍峻(かくしゅん)?呉質(ごしつ)孫瑜(そんゆ)陳武(ちんぶ)

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