-211年- 辛卯(しんぼう)
【漢】 建安(けんあん)16年 ※献帝(けんてい。劉協〈りゅうきょう〉)
月別および季節別の主な出来事
【01月】
曹操(そうそう)が、息子の曹丕(そうひ)を五官中郎将(ごかんちゅうろうしょう)に任じて属官を設けたうえ、丞相(じょうしょう)の補佐とする。
『三国志』(魏書〈ぎしょ〉・武帝紀〈ぶていぎ〉)
【01月】
庚辰(こうしん)の日(11日)
献帝が、曹操に返書を下し、先に曹操が辞退を申し出た2万戸のうち5千戸を削減したうえ、残りの3県1万5千戸を分割して、曹操の3人の息子に与える。
この際、曹植(そうしょく)が平原侯(へいげんこう)に、曹拠(そうきょ)が范陽侯(はんようこう)に、曹豹(そうほう。曹林〈そうりん〉)が饒陽侯(じょうようこう)に、それぞれ封ぜられた。その領邑(りょうゆう)は5千戸ずつとされた。
『三国志』(魏書・武帝紀)の裴松之注(はいしょうしちゅう)に引く『魏書』
【?月】
商曜(しょうよう)らが大陵(たいりょう)で反乱を起こす。曹操は夏侯淵(かこうえん)と徐晃(じょこう)を遣わし、これらを包囲して撃破させた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】
張魯(ちょうろ)が漢中(かんちゅう)を占拠する。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【03月】
曹操が、鍾繇(しょうよう)に張魯討伐を命ずる。また夏侯淵らにも、河東(かとう)に出て鍾繇と合流するよう命じた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】
曹操配下の鍾繇の漢中遠征に対して、関中(かんちゅう)にいた馬超(ばちょう)が疑心を抱き、韓遂(かんすい)・楊秋(ようしゅう)・李堪(りかん)・成宜(せいぎ)らとともに反乱を起こす。曹操は、曹仁(そうじん)を遣わして討伐にあたらせ、馬超らは潼関(とうかん)に陣取った。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【07月】
曹操自身も西方へ向かい、馬超らと潼関を挟んで陣を布(し)く。
曹操は対峙(たいじ)する一方、密かに徐晃と朱霊(しゅれい)らに命じ、夜中に蒲阪津(ほはんしん)を渡らせ、黄河(こうが)の西を占めて陣営を築かせた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒07月
このとき曹丕は、鄴(ぎょう)の留守を命ぜられていた。
『三国志』(魏書・文昭甄皇后伝〈ぶんしょうしんこうごうでん〉)
【?月】
曹操が、潼関から北へ渡河する。渡りきらないうちに馬超が攻めかかったものの、曹操配下の校尉(こうい)の丁斐(ていひ)が、牛や馬を解き放ったため、馬超の兵はこれを鹵獲(ろかく)しようとして混乱を起こす。
これにより、曹操も無事に渡河することができ、黄河に沿って甬道(ようどう)を築きつつ南へ向かった。馬超は退却して渭口(いこう)を固めた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】
曹操が多数の疑兵を配置したうえ、密かに兵を舟に乗せて浮き橋を造らせ、夜中に兵を分け、渭水(いすい)の南に陣営を築かせる。
馬超らはこの陣営に夜襲をかけたものの、曹操の伏兵に撃破された。馬超らは渭水の南に陣取り、書簡を送って、黄河以西を割くことを条件に講和を求めたが、曹操は承知しなかった。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【09月】
曹操が、軍を進めて渭水を渡る。馬超らは、あくまでも土地を分けるよう要求し、その代わりに人質を送ることも申し出る。曹操は賈詡(かく)の献策を容れ、表向きはこの申し出を承知した。
曹操は、韓遂の求めに応じて会見したが、あえて軍事には言及せず、ただ都(洛陽〈らくよう〉)での昔の思い出などを語り合っただけだった。
馬超は、韓遂に曹操と話した内容を尋ねたが、韓遂は「特に何もなかった」と答えるだけ。このことで馬超らに疑心が生まれた。
別の日、曹操は韓遂に書簡を送ったが、わざと消したり、書き改めたりした箇所を多く作り、あたかも韓遂がそうしたように見せかけた。馬超らはいよいよ韓遂に疑惑を抱いた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
★このくだりでは、「曹操が韓遂の父と同年の孝廉(こうれん)であるうえ、韓遂とも同じ時期に旗揚げした仲間だった」ともある。
★さらに「『曹瞞伝(そうまんでん)』による」として、「曹操の軍が渭水を渡るたび、馬超の騎兵隊に突撃され、陣営を築くことができなかった。この土地は砂が多く、砦を造ることも不可能だった」とあり、「婁子伯(ろうしはく。婁圭〈ろうけい〉)が、砂の城壁を造った後、水をかける(氷の城壁を造る)よう進言した」とある。
これについて「ある人が『当時は9月であるから、まだ水は凍るはずがない』と疑念を示している」と続き、裴松之が『魏書』を調べたところ、「曹操軍は8月に潼関に到着し、閏月(うるうづき)に北へ渡河している。とすれば、その年の閏8月である。この時期に大変な寒気が訪れるはずがあろうか?」と、同じく疑問を呈している。
【?月】「曹操の関中平定」
曹操が、日を定めて馬超らと合戦し、散々に討ち破る。この戦いで李堪と成宜らが斬られ、馬超と韓遂らは涼州(りょうしゅう)に逃走。楊秋は安定(あんてい)に奔った。これにより、曹操が関中を平定した。
『三国志』(魏書・武帝紀)
⇒09月
庚戌(こうじゅつ)の日(15日)
曹操が、渭南(いなん)で韓遂や馬超らと戦い、大破する。これにより、函谷関(かんこくかん)から西の地が平定された。
『後漢書(ごかんじょ)』(献帝紀〈けんていぎ〉)
★李賢注(りけんちゅう)によると「『曹瞞伝』に『このとき婁子伯が曹操に、いまは寒い日が続いておりますから、砂を盛って城を造るとよいでしょう。これに水を注げば、一夜にして完成しましょう、と説いた。曹操はこれに従い、翌朝には城が完成した。馬超と韓遂はしばしば(この城に)挑んだが、得るところなく(撤退し)、曹操は虎騎(こき)を用いて挟撃し、これを大破した。馬超と韓遂は涼州に逃げた』とある」という。
★『全譯後漢書 第2冊』(渡邉義浩〈わたなべ・よしひろ〉、岡本秀夫〈おかもと・ひでお〉、池田雅典〈いけだ・まさのり〉編 汲古書院)の補注によると、「『曹瞞伝』は書名。呉人(呉の人)の作と言われる。曹操の小字(こあざな)である阿瞞(あまん)から書名を取るように、曹操に悪意を持って書かれている」という。
★同じく『全譯後漢書 第2冊』の補注によると「婁子伯は婁圭。子伯は字。南陽(なんよう)の人。劉表と連携を持った後、曹操に起用された。しばしば国家の大計を述べたが、不遜な言辞を吐いて処刑された」という。
【10月】
曹操が、長安(ちょうあん)から北へ向かい、安定の楊秋を包囲する。楊秋が降伏したため、曹操はもと通りの爵位を与え、その地に留まり、住民の鎮撫(いぶ)にあたるよう命じた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【12月】
曹操が、安定から帰途に就く。この際、夏侯淵を残して長安に駐留させた。
『三国志』(魏書・武帝紀)
【?月】
劉璋(りゅうしょう)が、法正(ほうせい)の意見を容れ、劉備(りゅうび)を益州(えきしゅう)に迎え入れる。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表
⇒?月
この年、劉璋が、劉備に張魯討伐を依頼し、益州に迎え入れた。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表
【?月】
この年、孫権(そんけん)が、自身の政庁を秣陵(ばつりょう)に移した。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・呉主伝〈ごしゅでん〉)
★『後漢書』(郡国志〈ぐんこくし〉)の劉昭注(りゅうしょうちゅう)によると、「(丹陽郡〈たんようぐん〉の秣陵県は)もとは金陵(きんりょう)と言ったが、秦(しん)の始皇帝(しこうてい)が(秣陵と)改めた。建安16(211)年に孫権は建業(けんぎょう)と改め、建安17(212)年に石頭(せきとう。石頭城)を築いた」という。
【?月】
この年、呉郡(ごぐん)余杭県(よこうけん)の平民の郎稚(ろうち)が、一族郎党を集めて反乱を起こす。孫権配下の賀斉(がせい)がこれを討伐した。賀斉の上表により、余杭県を分割して臨水県(りんすいけん)が設置された。
『三国志』(呉書・賀斉伝)
【?月】
この年、孫権配下の呂岱(りょたい)が、郎将の尹異(いんい)らを指揮し、2千の兵をひきいて西方へ向かう。そして、漢中の反乱者たちの首領である張魯に誘いかけ、漢興郡(かんこうぐん)のケン城(けんじょう)まで出てくるよう伝えた。
しかし張魯が孫権の真意を疑い、両者をつなぐ道を通れなくしたため、この計画はうまくいかなかった。孫権はそのまま呂岱に帰還を命じた。
『三国志』(呉書・呂岱伝)の裴松之注に引く『呉書』
★漢興郡について『後漢書』(郡国志)の劉昭注によると、「『魏略(ぎりゃく)』に『曹操は関中を分けて漢興郡を設置し、その太守(たいしゅ)として游楚(ゆうそ)を起用した』とある」という。
【?月】
この年、趙王(ちょうおう)の劉赦(りゅうしゃ)が薨去(こうきょ)した。
『後漢書』(献帝紀)
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