278年(晋の咸寧4年・呉の天紀2年)の主な出来事

-278年- 戊戌(ぼじゅつ)
【晋】 咸寧(かんねい)4年 ※武帝(ぶてい。司馬炎〈しばえん〉)
【呉】 天紀(てんき)2年 ※帰命侯(きめいこう。孫晧〈そんこう〉)

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月別および季節別の主な出来事

【03月】
晋(しん)の司馬炎が、山濤(さんとう)を尚書左僕射(しょうしょさぼくや)に任ずる。
『正史 三国志8』(小南一郎〈こみなみ・いちろう〉訳 ちくま学芸文庫)の年表

【06月】
晋の涼州刺史(りょうしゅうしし)の楊欣(ようきん)が、武威(ぶい)で若羅抜能(じゃくらばつのう)と戦って敗死する。
『正史 三国志8』の年表

【06月】
晋の羊祜(ようこ)が病を押して入朝し、司馬炎に平呉の決断を求める。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』(坂口和澄〈さかぐち・わずみ〉著 光人社)の『三国志』年表

【07月】
呉(ご)の孫晧が、11人の息子を成紀王(せいきおう)や宣威王(せんいおう)などに封じ、それぞれ3千の兵を配置したうえ、大赦を行う。
『三国志』(呉書〈ごしょ〉・孫晧伝)

273年9月の記事と同様、ここでも孫晧の息子たちの名は出てこなかった。そのころから息子たち11人とあり、数が変わっていないので、新たに王に封じたというよりも、移封したという意味合いが強いのだろう。

【09月】
晋の司馬炎が、何曾(かそう)を太宰(たいさい)に、李胤(りいん)を司徒(しと)に、それぞれ任ずる。
『正史 三国志8』の年表

【10月】
晋の揚州刺史(ようしゅうしし)の応綽(おうしゃく)が、呉の皖城(かんじょう)を攻めて損害を与える。
『正史 三国志8』の年表

【12月】「羊祜の死」
晋の羊祜が死去する。
『正史 三国志8』の年表

⇒11月
晋の羊祜が病死する。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表

【12月】
晋の司馬炎が、杜預(とよ)を都督荊州諸軍事(ととくけいしゅうしょぐんじ)に任ずる。
『正史 三国志8』の年表

⇒11月
晋の司馬炎が、杜預を都督荊州諸軍事に任ずる。
『正史三國志群雄銘銘傳 増補版』の『三国志』年表

杜預については、慣例として「どよ」と読まれるとのこと。

【?月】
この年、東夷(とうい)の9か国が晋に内附(ないふ。服属)した。
『正史 三国志8』の年表

【?月】
この年、傅玄(ふげん)が死去した(217年~)。
『正史 三国志8』の年表

特記事項

「この年(278年)に亡くなったとされる人物」
郤正(げきせい)羊祜(ようこ)

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